2015
08.26

奪われるのは命だけではない。『野火』感想。

nobi
2015年 日本 / 監督:塚本晋也

あらすじ
これが、戦争。



日本軍の敗北が濃厚となった第二次世界大戦末期のフィリピン戦線。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され野戦病院へと送られるが、そこも追い出され食料もなくさ迷う。大岡昇平の原作を塚本晋也が製作・監督・脚本・撮影・編集・主演で映画化。市川崑監督で1959年にも映画化されてますがそちらは未見です。

ゴア描写が凄いと聞いてたのでかなり身構えて観ましたが、PG12なので直接的な残虐さはそこまで酷くはないです。だからそこに躊躇するのは勿体ない。いや十分グロいけど、ホラー映画に慣れてれば耐えられる(たぶん)。そして監督本人も言ってますが、これは必要な表現でしょう。本作は戦争映画ながら、一方的な虐殺はあっても敵軍と戦うという描写は皆無です。ジャングルのなか食べるものもなくさ迷い、時折襲う銃弾に倒れ、あっという間にモノとなっていく人間たち。生き延びた者もただ生き長らえてるだけで、それでも生に執着し食べるものを探す。戦争自体というよりは極限状態の人間そのものを描き、その結果として戦争の嫌さに繋がるんですね。これは死に様で泣かせようとするよりよほど反戦映画です。

有力なスポンサードを受けられず、自主製作として企画から撮影、宣伝に至るまで全てを自分達でやったと言う塚本監督。多くの人に観てもらいたいから主演は有名俳優でやりたかったそうですがこれも叶わず自ら主演をすることに。ですが結果的には余計な横槍が入らなかったことで出来うる範囲でのやりたいことは出来ただろうし、何より塚本監督本人が演じる田村一等兵の喋り方や目のギラつきなどが素晴らしい。安田役のリリー・フランキーの親しみがありながら目が笑ってない感じも良いです。この人は作品ごとの良い人悪い人の振り幅が大きすぎてホント怖い。伍長役の中村達也(ブランキー・ジェット・シティのドラム!)が醸すカリスマ性もハマっています。

行ったり来たりでワケが分からなくなってから突然開ける地獄への道。田村一等兵同様観る者もこの地獄に流されていくしかない。芋の欠片にすがりつき、ウジの湧く死体の間を徘徊し、強者さえも壊れゆく戦場。そこは既に戦場でさえなく、ただ大地を血と肉で汚すための場所。一方で際立つのが南国の島を彩る風景の美しさ。その対極的な描写のなかで、田村は空腹からくる究極の選択を迫られます。戦争が奪う人としての尊厳を真っ向から描き、87分という尺の短さに驚く濃密さ。原作のアレンジも非常に上手く、低予算を感じさせない見事な作品です。観るべき。

↓以下、ネタバレ含む。








田村が最初に駐屯地と病院を行ったり来たりする繰り返しから、戦地の理不尽さ、食料の不足、組織がもはやまともに機能してないことなどが分かります。加えて兵隊として戦地にいることの閉塞感。出口は自決しかない、ということまで突きつけてきます。そんな迷走状態を突如として破る銃撃。画面奥からドッドッドッと地面を穿ちながら来るそれが銃撃だと気付いた瞬間、自分を掴む医師の頭が吹っ飛ぶ衝撃。病気で死にそうとか食うものがないとか自決を迫られてるとか既に死が近付いてる状況でも容赦なくトドメを刺される、しかもたった今自分と話していた者の頭がパックリ。これが戦争だと言っているわけです。夜の匍匐前進のシーンもそう。パロンポンを目指す一行の前でいきなり投光器が付いたときの驚きと絶望。そこに予想以上に多くの兵士がいたことにも驚きますが、そんなのも直後の大虐殺で全てぶっ飛ばす。もげた腕を奪い合う者たち、こぼれるはらわたを押さえる者、飛び散った脳しょうを踏みつけ逃げ惑う者。もう誰が誰やら、その前にどれが誰やらも分からない。あっという間にモノとなってゆく人の群れ。人であることなどあったのかという肉の塊。ワイルドな伍長殿でさえ仲間を撃たれて壊れていき、ハエのたかるモノとなっていきます。

銃や爆弾で殺されなくとも死は付きまといます。それが生命を維持するための食物の欠如。実際レイテ島では戦闘での死者より餓死者の方が圧倒的に多かったそうです。だから腹が減ればたとえ腹を壊すと分かっていても野性の芋を生で食ってしまう。そこらに生えてる草も食べてみる。自分の足に食いついてきたヒルでさえ喰らう。それでも食うものがなくなったら何を食うか。そこに人肉食というタブーがいともすんなりと入ってきてしまう恐怖。人の尊厳は奪われるだけでなく自ら捨てることさえある。田村はそこに向き合うことを余儀なくされます。自分を食べていいよと言う伍長殿からは逃げ出すものの、永松に「猿の肉」と言われ食べさせられた時点で何となく察してはいたのでしょう。だから永松が猿を撃ちに行くというのを追いかけそれを確かめる。永松が銃口を突きつけられながらも「お前だって俺を食う」と涙を浮かべ、でもたった今安田を食べた血だらけの口を開けて叫ぶ表情はトラウマものです。

田村が人を食うという場面は最後までないし、落ちている足首に手を伸ばしかけても我に返ります。爆弾でえぐれた自分の肩の肉はあっさりと口に入れますが、それは自分のものなので躊躇がない。他人を手にかけてまで生きようとはしていない、と言うよりは、それほど命に固執していないようにも思えます。最後の芋を永松に、最後の塩も同行の兵士にあげてしまうし、銃は途中で川に捨ててしまう。冒頭で分隊長に頬を張られながら「自決します」と言った際に既に気力は尽きているのかもしれません。しかし一人の時は何でも食うし、あてどなくも歩き続けるんですね。原作では「何者かに見られているという感覚」が田村の力となりますが、そういった目に見えない何かを感じずにはいられません。それは生き物としての生存本能かもしれないし、もっと大きな神という存在かもしれない(原作では神の存在を仄めかす)。あるいは島の美しい風景がもたらすありのままの自然かもしれない。陽に照らされ輝くジャングルの木々、青く照り返る海原、幻想的に光り舞う蛍の群れ、そんな美しい光景が死への思いを忘れさせているのかもしれない。でもそこが戦場であるが故に閉塞感は決して消えないのです。ただ生きるか、腐って死ぬかしかない。伍長の部下に「お前は自由だ」と言われたところで、何の選択肢もない自由は果たして自由と言えるのか。仲間の死体がゴロゴロするなかゾンビのように徘徊する者たちと何が違うのか。結局そこが出口のない地獄であることは変わらないのです。

田村は教会で比島の女を撃ち殺しますが、騒がれてやむを得ずだとしてもそこに罪を感じています。似た顔の比島の女が自分より先に投降しようとした兵士を蜂の巣にしたことで、同じく投降しようとした田村の心も撃ち殺すんですね。これは他人を手にかけようとしなかった田村が唯一犯した罪とその罰と言えるでしょう。しかし田村の罪は本当にそれだけだったのでしょうか。奇跡的に日本に帰ることができた田村が食事の時にとる不可解な挙動。それはまるでナタを振るっているかのような動作なのです。食べるために何かを解体でもしているかのような……。そしてそこが平和を取り戻した祖国の我が家であるにも関わらず、外を眺める田村の目にはいまだに野火が広がる地獄が見えている。何のために戦い、何のために生死を彷徨い、何のために罪を背負い罰をくらうのか。そんな疑問しか残らないのが戦争というものなのでしょう。

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