2015
07.28

ヨロコビの涙、カナシミの笑顔。『インサイド・ヘッド』感想。


Inside Out / 2015年 アメリカ / 監督:ピート・ドクター

あらすじ
ブロッコリーもピーマンも美味しく思える時が来る。



11歳の少女ライリーの頭にいるヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリの5つの感情たちは、ライリーが幸せになるよう感情を与えることに奮闘する日々。しかしライリーの一家が突然ミネソタの田舎から都会のサンフランシスコに引っ越した際に、感情たちに事件が起こる。人間の「感情」を擬人化した世界を描くピクサー・アニメーション作品。

世界が外へと広がる話が多いピクサーにとっては「感情の擬人化」という内へ向かう話は結構チャレンジングだと思うんですよね。でも脳機能のビジュアル化というEテレ的アプローチにとどまらず、一人の少女を取り巻く物語として上手く成り立たせてます。11歳の色褪せていく思い出、複雑化する感情というものについて、凄くよく考えて作られていますね。感情を5種類に整理したことでそれぞれが際立つと同時に、単体でいることの意味が変わってくるというのには唸りました。特にヨロコビとカナシミが二人で行動するのは深い。自分の世界は少しずつ、あるいは劇的に変わっていくけども、そこには喪失だけではなく内面の成長というものもあるのだ、ということを描いているのがとても良いです。

字幕版と吹替版の両方観ましたが、字幕版の方が原語のニュアンスが再現されてます。パパとママ役がカイル・マクラクランとダイアン・レインで「マジか!」という豪華さ(ちなみにパパのイカリは監督本人のようです)。吹替版は台詞が色々単純化されてるのが残念ですが、吹替自体はすごく良いですよ。特に竹内結子はあの感情豊かで台詞量の多い役を見事にこなしてます。大竹しのぶのちょっと舌ったらずで絶妙なイラつかせ具合も合ってます。吹替版はタイトルなどが日本語なのはもちろん、嫌いな食べ物として出てくるブロッコリーを、日本に合わせて全てのシーンでピーマンに変えるという徹底ぶり。怖いものの象徴としてピエロが出てくるのが、ひょっとしてなまはげになってたりするのでは……と思わせるくらい(さすがにそれはない)。ピクサーのローカライズ方針は異国の文化に親しむ機会を奪うようであまり好きじゃないんだけど、今回は自分の物語として見せたいという思いからのこだわりならまあ許せるかな。

サンフランシスコの特徴的な坂道、思い出捨て場の奈落の底、広大な脳内で延々と続く記憶ボールの棚、巨大な性格の島が崩れていくスペクタクルと、練られた美術やアクションのハラハラ感も素晴らしい。子供よりも大人の方が響きそうな気がするかな。ピクサーの中でもかなり上位で好きです。

ちなみに本編前の短編『南の島のラブソング(LAVA)』は、まあベッタベタのラブストーリーではあるけど、眩しい太陽、青い海、白い砂浜、そして波の音が心地良いです。つまり最初と最後は良かったです。あとピクサーの擬人化もここまで来たかって感じですかね。もはや日本の神話みたいになってきたな。

↓以下、ネタバレ含む。








長期記憶、潜在意識、抽象概念など、感情というか脳の機能のビジュアル化は上手いですね。記憶の玉が生産されたり破棄されたり、寝ると長期記憶に移されたりとシステマチックに運営され、たまに大切な思い出というレアボールが出たりもする(荘厳な効果音がイイ)。感情による行動の結果が記憶となり、記憶は思い出として保持されると共に性格の元として島を形作っていく。このあたりの描写は素直にワクワクします。記憶が感情の属性を持っていて、それが色で判別できるというのも優秀なユーザビリティ。考えが列車として到着するとか、ヨロコビたちにも操作できない夢スタジオの独立性とか、記憶消去人の容赦ない記憶の消し方なんかもいいですね。感情を送るコントロール台も最初はボタンひとつなのがライリーが成長するにつれ大きく複雑になっていきます。思春期ボタンが危険扱いというのも「だよねー」という感じ。ただ、吹替では「長期記憶」が「思い出の保管」になったり「抽象概念」が「アート」になったりと言葉の意味がちょっと変わってるのが残念。「ヴァンパイアの男」が「憧れの先輩」になってるのは、アメリカのティーンにはヴァンパイアもののヤングアダルト小説が人気だというのが一般には分かりにくいってことでしょうね。

感情を擬人化するというのは、感情が感情を持つという不条理さとなってよく分からないことになるからリスキーだと思うんですよ。感情がライリーを操るなら感情の主体は何なのか、なんてことを言い出されかねない。基本的には全ての感情がライリー自身であるでしょう。感情たちのやり取りは、見も蓋もない言い方をすれば脳内におけるシナプスの発火です。ただ、感情たちの行動とそれがライリーの表面にどう表れるかさえ矛盾しなければそこに物語の要素を入れることは十分許容できます。例えばヨロコビとカナシミが指令室から物理的に飛ばされるのもストレスによる感情の欠落と見れるし、実際家出を決意するライリーは残り三つの感情で動いています。たとえ感情シーンを全てカットしたとしても話は成り立つようにできてますね。また、感情たちにライリーを見守る存在、という属性を与えることも特に矛盾はしておらず、仮にそれが自己防衛本能のような働きだとしても、物語としてはドラマチックな彩りとして効果的です。

それぞれの感情は単独だと結構ウザったいものがあります。特にヨロコビの、周りのことを考えずただ楽しくすればいいというポジティブさは、カナシミ以上に鼻につきます。しかしヨロコビは明るく振る舞うことだけが有効とは限らないことを、ビンボンを立ち直らせるカナシミの姿に見ます。ホッケーの試合での喜びが試合でのミスの悲しみから始まっていたことを知ります。悲しみを共に分かち、喜びを共に享受するからこそ大事な思い出になりうるということを知ります。喜びだけでは強がりになりかねない。カナシミの行動がどこかおかしくなったのもそんな強がりにより押さえ込まれていたためで、ラストにカナシミによって本心を言うライリーは、喜びだけで対処できない苦味を知り一歩前へ進むことができます。これは誰もが大なり小なり覚えのある経験であるため、少女が主人公でありながらも共感できる普遍的なテーマとして描くことに成功していると言えるでしょう。

また、単純に「成長することが喜び」であるとせず、同時にそこには失われる寂しさもあるとしているのが深いです。感情でさえ生まれたときはヨロコビとカナシミ(快と不快)しかないのが複雑化して厄介になっていくし、子供時代の思い出は色あせ消えていく。おふざけをしなくなり、友人とは疎遠になり、親の財布から金を盗み、そのたびに性格の島が崩れていく。大事なものや価値観が変わっていくのはしょうがないことですが、こうして見せられると寂しいものがありますね。それを最も体現しているのがビンボンです。しかし彼のおかげでヨロコビは戻ることができるわけで、これは好きだったものがあって今の自分がある、たとえ忘れてしまってもそれは確かに自分の一部だったということを表しており、思い出と喪失、喜びと悲しみの表裏一体に泣けます。ビンボンは『トイ・ストーリー3』のキャラたちををさらに抽象化したような存在のため、これもまた多くの人が共感できるポイントになっていると言えます。

そうして見るとヨロコビの頭の形も涙型に見えてきますね。対するカナシミのぽっちゃり具合も包容力ある感じに見えなくもない(「足を引きずって」ポーズが憎たらしくも可愛い)。感情たちの表面はホワホワしてたり髪の毛が毛糸っぽかったりとさりげない柔らかさがあって、それが親しみやすさにもなってます。チームハッピー以外の面子がちょっとデザイン的に弱い気もしたけど、脳内スタッフのジェリービーンズっぽいシンプルさもまた抽象的な存在を狙っているのかも。一方でライリー特有の存在として出てくるビンボンは独特の造形(キメラのよう)ですが、子供らしく好きなものを組み合わせたという点が大事なので「あり」でしょう。空想彼氏だけはやたらリアルですが、あれはアイドル的なイメージなのかな?そこはね、乙女心ですよね。でも増殖させて物理的に使うという安っぽい扱いがまだ11歳だなということでもあります。

ライリー以外の頭のなかも出てくるのは面白いですが、父は怒りとビビリがメイン、母はカナシミとムカムカがメインと、大人は感情が複雑化して単純にはいかない、しかもヨロコビが一番おとなしそうというのがちょっとせつないです。それにしても眼鏡美人なママさんのブラジル人元カレが気になる……。犬は全部従順、猫は全部適当というのも分かりやすい。怒りっぽい人もいればめんどくさがりな人もいる。さて、自分の感情はどうなってるだろう?ヨロコビが涙を見せてもカナシミが笑顔を与えるようになっているだろうか?……などと思わず色々と考えてしまいますね。

スポンサーサイト
トラックバックURL
http://cinemaisland.blog77.fc2.com/tb.php/953-9b996d96
トラックバック
back-to-top