2015
06.29

「死」の道で語る「生」の伝説。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』感想(その1)。

Mad_Max_Fury_Road
Mad Max: Fury Road / 2015年 アメリカ / 監督:ジョージ・ミラー

あらすじ
What a Lovely Day!



文明が滅び荒廃した世界、とある一帯を牛耳るイモータン・ジョーの軍団に捕えられた元警官のマックスは、ジョーの支配から逃れようとするフュリオサたちに成り行きで同行することになる。行く手は砂漠、後ろからは追っ手の大軍。マックスたちは自由を手にすることができるのか。前作から何と30年経っての『マッドマックス』シリーズ続編。監督はシリーズ通してのジョージ・ミラー、主演のマックス役はトム・ハーディ。

まず言ってしまいましょう。最高だ!

メル・ギブソン主演で3作作られた『マッドマックス』シリーズにまさか続編が作られるとは意外でしたが、構想自体は10年以上前からあったようで、紆余曲折を経ての完成となったようです。しかしこれがアクション映画の、と言うより映画の歴史そのものに新たな息吹を吹き込むほどの素晴らしい出来。ド派手なカーアクション、独創的なヴィジュアル、元祖にして最新の世界観から、台詞も説明も少ないのに直接描かれていないことまで分かるというインテリジェンスまでブチ込み、全てが予想の上を行く展開に目を見開き息を止めること必至。

簡単に言えば、荒れ果てた世界での地獄のロードムービーです。しかし単なる世紀末感ではなく、本能を呼び覚ますサバイヴの連続には否応なく鼓動が高鳴り、「死」でまみれているのに「生」を実感する感動がそこには確かにあります。ストーリーだけをなぞればいたってシンプルですが、その背景は非常に奥深く、登場人物たちはみな大きな思いを抱えて生きています。IQ低い映画に思われそうだけど、決してバカっぽいという感じではなく、かと言って表面上は理知的というわけでもなく、色々と徹底して作り込んだ緻密さとそうとは見せない勢いが奇跡的に融合しています。山場ばかりのように見せてちゃんと緩急もある、何気ないショットでも色々語りたくなる。だから頭悪いどころか超頭イイんですよ。まあ頭おかしいとはある意味思うけど(ホメ言葉)。

寡黙でタフな男マックスを演じるトム・ハーディは多くを語らなくても存在感を示せる抜群のニュー・マックス。もう一人の主役であるフュリオサ役のシャーリーズ・セロンは丸刈りに左腕が義手という特異な出で立ちで壮絶な女戦士として最高です。最高といえばイモータン・ジョーを演じるのが『マッドマックス』1作目の強烈な悪役トーカッターを演じたヒュー・キース=バーンというのがたまりません。あの眼力!ジョーの嫁たちはあの世界にあってそこだけ「同じ人間なの?」と言うのも納得の異次元な美しさだし、対するウォーボーイズは統制された中にも個性的な意匠が施されていて面白い。ウォーボーイズの一人ニュークス役のニコラス・ホルトが重要かつ繊細な役どころで素晴らしいです。リクタス役のネイサン・ジョーンズは『トム・ヤム・クン!』などにも出てましたね。

あんなのが本当に走っているというだけでテンション爆アガりの、MADを彩る改造車の数々。加えて爆弾槍や棒飛び隊といったウォーボーイズのバラエティに富んだ戦闘、人食い男爵や武器将軍、ギター男といった強烈なキャラなど、アドレナリン大放出のアクションには否応なしに引きずり込まれます。鑑賞中はずーっと「ンフーッンフーッ」と鼻息荒く観てましたよ。帰り道でも収まらなくて、マックスみたいに「ン」「ン〝ー」って唸る声が漏れてしまったり後ろ歩いてる人にサムズアップしそうになったりして超怪しい人になってました。車乗ってる人はさらに危ないですからね、気を付けないとヴァルハラに行っちゃいますからね!

血と炎でできた世界で保つべきは正気か狂気か、その答えはここにある!前作と直接の繋がりはないので、シリーズ観てなくても問題ないです。というか、今!スクリーンで!観るべき!ありがとうジョージ・ミラー、最高だぜ!

↓以下、ネタバレ含む。








◆クレイジーの中にあるクレバー

全てを描かずにちょっとしたショットやセリフでその背景を見せるという絶妙な取捨選択をこなしてるところに非常に知性を感じます。想像する余地を残し、その想像した結果からフュリオサやイモータン・ジョーの知的な部分も見えてくる、という二重の仕掛けになっています。しかもそんなクレバーさが観る者の熱量を奪うということはないんですね。それはクレバーとは対極に思えるクレイジーなロードシーンでさえそうで、同時に進行するいくつかの修羅場の、何を映して何は映さないか、誰をどう映すかが考えられている。シーンが間引かれてても前後で自然と分かるようになっているから、鬼気迫るアクションを存分にブチ込んでも流れとしてはキッチリ成立している。そこが凄いです。だから「ヒャッハー!」と観るのもロジカルに観るのも正しいんですね。

説明や台詞を少なくしながらヒントとなる情報は随所に散りばめ、あとはヴィジュアルやアクションで見せるというのが、観る者に想像させつつ余計な描写を省くという非常に大きな効果を生んでいます。これはもう冒頭からそうで、見渡す限りの荒野、トカゲでさえ食うという食糧事情、狩る者と逃げる者という弱肉強食、「O型 "ハイオク"」という刺青からガソリン同様に注入する扱いと分かる血液、逃げるマックスを追うのが統率された組織であること、車の修理をする技術があること、マックスが過去の記憶に囚われていること、巨大なドクロマークから強大な組織であることなど、タイトルが出るまでの間に実は相当な情報量があります。

畸形者が多いことはこの世界では健康な者の方が少ないということを示し、ジョーが健康な子供を望むことの裏付けにもなるし、生まれつき健康を害しているウォーボーイズが長くは生きられないことを逆手に取って狂信的な兵士に育て上げているなど、舞台の背景も浮かび上がってきます。ヤマアラシ隊のような言語の全く異なる異種族がいるとか、鉄馬の女のような生きるために必要だから戦うという人々がいるのも伺え、世界の拡がりを感じさせます。細かいところではこの手のバイオレンスにありがちに思われる「Fuck」とか「Fuckin'」とか言うセリフがない(全部聞き取れたわけじゃないから自信はないですが)というのも、監督がオーストラリア人というのはあるにせよ、生きるためには全てが必要でファッキンなものなど何もないのだ、というように取れるし、かつ「悪態つく前に暴れるんだよ!」って感じまでさせてくれます。(追記:嫁の一人ダグが貞操帯を蹴るときに「Fuck!」って言ってました。でもこれはいいんですよ、蹴っ飛ばす対象が囚われた性の象徴で、それに対してFuck!と罵るのだから)


◆人々が持つ物語

個々のキャラクターの幅もわずかな台詞とやり取りだけで大きく膨らみます。イモータン・ジョーに心酔するニュークスが「死ぬならデス・ロードで」と言うのは死後「英雄の館に招かれる」というのを信じているからですが、裏を返せば死期が迫ってくるという目の前の絶望を取り払うためのやけくそ感でもあるし、肩にできた腫瘍を「友達のラリーとバリー」と呼ぶのは心を開く友人関係がないことを表していて悲しくなってきます。

フュリオサなんてその見た目や女でありながら大隊長であるという設定だけで壮絶な過去が伺えます。「逃げようとしたのか」というマックスの問いに「数えきれないほど」と返しながら遠くを見つめる表情なんてゾクリとして声が漏れそうでしたよ。何よりもその過去を明白に表しているのがクライマックスの「私を覚えてる?」ですね。軍団の大隊長であるフュリオサをジョーが覚えているのは当たり前なわけで、そうではなくジョーがかつて一人の女性をどう扱ったかというのが瞬間的に浮かんでくるんですよ。そして直後の復讐に繋がるんですね。

他にもイモータン・ジョーの支配するために考え抜かれたシステムであるとか、スリットのヒャッハーさ加減であるとか、スプレンディドの強さであるとか、武器将軍のカウボーイぶりや人食い男爵の乳首大好き具合とか、あらゆる人物がスピンオフを作れそうなくらい物語性を感じさせるのがまた凄いです。


◆逃走、そして闘争

デス・ロードの道行きは「逃走」の物語として始まります。これはフュリオサたちにとってもマックスにとってもそうで、利害が一致したからこそ協力して走っていく。しかし最初は牽制しあっていた彼らも、共通の敵から逃れるために何も言わずとも徐々にそれぞれの役割をこなすようになります。相手の行動が信頼を呼び、それに答える形で行動していく、このあたりの描き方は実に自然。そうして多くの困難を乗り越えてはいくものの、中盤でそれまでの「緑の地にさえ行けば」という希望が絶望に変わってしまう。フュリオサが無くなった故郷を嘆き叫ぶシーンは激しくてせつない美しさで震えます。フュリオサたちは当てもなく塩の海を渡るという緩やかな死へと突き進もうとしますが、これを止めるのがマックス。マックスは過去に助けられなかった者たちの幻影に苛まれており、そんな失った者への贖罪ということもあるのでしょう。

折り返し地点以降は「闘争」の物語となります。フュリオサにとっては失った故郷を新たに手にするための旅であり、自分を取り戻す旅でもあります。過去を精算するべく戦うことによって、魂の解放まで描くんですね。これはニュークスも同じで、狂信者の一人としていかに死ぬかを考えることから、自分が成せることを成しながら生きるための旅になる。ウォータンクに特攻しようとしたときの「俺を見ろ」と最後に皆を守るために散っていく「俺を見ろ」では意味合いが全く異なります。自分のためではなく大事な人のための選択はニュークスの魂の解放となり、その目にはもはや狂気はなく満足感さえ見られます。英雄の館などなくても、ニュークスを見続けたケイバブルの思いが彼の生き抜いた証となるのです。


◆マックスという男

しかしマックスだけは魂の解放がありません。旅の目的も後半は女たちを砦に送り届けることであり、自分が何かを得るためではないんですね。強いていえば過去と同じような負い目を作らないためかもしれませんが、命懸けの戦いなのに少なくとも見返りは求めない。己の繁栄のため名乗るエセ救世主のジョーと異なりマックスは真の救世主であり、マックスが微妙に目立たないように思われるのは救われる者を描いた話だから必然でもあります。だからいまだ解放されていないマックスは旅を続ける必要があり、人混みに姿を消します。

しかし最初と最後ではマックスの立ち位置も異なります。「俺の名はマックス」で始まる冒頭は世界の語り部という俯瞰した立場であり、その後もなるべく世界と関わらないようにしてるマックスが、最後の最後で自分の名を名乗る。これは世界と関わることを受け入れたからのようにも見えます。勇猛な活躍をしながらそれを誇示せず、名前だけを残して去っていく。かの地ではそれは救世主の伝説として語り継がれていく。マックスと名乗った男の神話はこうして始まり、また別の地でそれは続いていくのでしょう。

 ※

ああっ、ここまで書いてはみたものの全然語り足りない!キャラとか車とか砦とか言及してないし最高なシーンもまだ山ほどあるのに!……まあ長くなるのでそれはまた別の機会にします。余計なものを削ぎ落としたシンプルさとそれ故に含蓄する奥深さに唸りつつも、銀スプレーを口に吹き掛けながら「V8!V8!」と連呼したくならずにはいられない稀有でラブリーな体験でした。Fury Roadが呼んでるぜ!


(追記)
語り足りないので第2弾アップしました。よろしければ。
最高な点をひたすら上げていこう。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』感想(その2)。

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