2015
01.26

支配か服従か。『毛皮のヴィーナス』感想。

La_Venus_a_la_fourrure
La Venus a la fourrure / 2013年 フランス・ポーランド / 監督:ロマン・ポランスキー

あらすじ
ちなみにサディズムの語源はマルキ・ド・サドと言う人。



19世紀オーストリアの小説家レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの自伝的小説「毛皮を着たヴィーナス」を元にした戯曲をロマン・ポランスキーが映画化。

場末の劇場、苛立つ演出家の男トマと遅れてオーディションに現れた36人目の女ワンダ。登場人物はこの二人だけです。しかも舞台は劇場という閉鎖空間のみ。そんな中でワンダにより強引に実施されるオーディション。演技を重ねるうちに徐々にシームレスになっていく現実と虚構。そしてマゾヒスティックな本性を剥き出しにされていく男。原作の戯曲の作者であるマゾッホはその名が「マゾヒズム」の語源になった人ですが、まさにそれを体現していく内容です。

舞台を舞台にした舞台劇のようで(ややこしい)登場人物も二人だけなのに、完璧な演技とふいに戻る現実、実名と役名、細かい伏線などでスクリーンに釘付け。女神なのか殺戮の眷属なのか分からないヴィーナスに抗えない男の悲喜劇とは裏腹に、言い知れない恐怖。ラストには震えが走りましたよ。

芸術の皮の下に潜む倒錯をポランスキーは丁寧かつ大胆にさらけ出して見せます。ワンダを演じるエマニュエル・セニエはポランスキーの実の奥さんだそうですが、50歳近くにして色気と存在感が凄まじい。こんなの撮って夫婦生活に影響ないのか、とも思いますが、映画内で描ききってるから逆にいいんですかね。スゴく面白いです。

↓以下、ネタバレ含む。








ワンダは素は身勝手で強引なアバズレっぽさでトマをイラつかせますが、その演技は台詞も含めて完璧で、それでいてふいに現実に引き戻す。やがて現実と芝居の区別は曖昧になり、呼ぶ名前も役名からトマに変えたり、文句を言われる前に芝居を進めてなし崩しにしたりする。このさりげない狡猾さと、女優としての完璧さ、実は原典も知っているというそら恐ろしさが絶妙にミックスされてスピード感さえ感じさせます。女の名前が役名と同じワンダだからトマの方は区別出来なくなってくる、というのも作為的。パントマイムに効果音を付けることで芝居の現実感がますます高まり、観る者にさえも混乱を与えてきます。

ワンダという女性が何者なのか、これは最後までハッキリしません。トマの婚約者のことも知っていて探偵として調べに来たと言いますが、そのわりには婚約者に帰らないとトマに言わせたり、行動が不可解。性差別な話への怒りをぶつけたいのか、変態と分かったらぶち壊す別れさせ屋なのか、演出家に成り代わりたい女優なのか、目的が分からない。あるいは神の使いという立ち位置とも言えそう。

最初は握手もキスも触れあわないのに、ブーツを履かせる場面では手ずからガッツリ履かせたり、初めはワンダの方から近付いていたのがトマの方から近付こうとすると避けたり、絶妙な距離の取り方。潜在的なMであるトマはほどなく恍惚の表情となり、衣装の背中を止める動作も最初と後半とでは随分変わってくるのも面白いです。物語中の男女は攻めと受けが途中で逆転しますが、舞台ではトマはいつの間にか女役に変わるため、常に攻められる立場が続くというのも上手い。途中で会話に出てくる、相手を皆殺しにしたバッカスの眷属の姿で毛皮をまとってやって来るワンダは、同じ毛皮でも貴婦人として毛皮のコートを纏っていたワンダとは全く異なります。これが恐い。身の毛がよだちます。

単なるSM話ではないし、役割を演じるという話でもないんですね。トマは攻められることに快感を覚えつつも、女性に隷属するというよりは女性に攻めるように振る舞わせたがっているんですね。「クソ女」とか「バカ女」とか性差別的なことを言ったり「これは自分の書いた脚本だ」って主張することからもそれは伺えます。そんな男根主義者が、最後には男根型のサボテンのハリボテに縛り付けられる。それは女性による告発とさえ言えるかもしれません。最後に縛られたトマを置いてカメラが遠ざかりながらドアが閉まっていくシーンは、女性を抑圧する男への罰であり、究極の放置プレイです。

トマの携帯の着信音が『地獄の黙示録』でおなじみワーグナーの「ワルキューレの騎行」なのは、色々と予兆めいていたわけです。

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