2014
07.24

絡め取られた男の足掻き。『複製された男』感想。

Enemy
Enemy / 2013年 カナダ・スペイン / 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ

あらすじ
さっぱり分からない。



大学講師アダムは映画の中で自分そっくりな俳優アンソニーを見つける。一体彼は何者なのか、というミステリー。ノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの原作を『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴが映画化。

「究極の心理ミステリー」とか「一度で見抜けるか」などと煽り文句が付いている本作、観た直後の感想は「すげー!全然分からない!」でした。ざらついた画作りに幻惑的な映像、不安を煽る旋律や太鼓を打ち鳴らすプリミティブな音楽。様々なヒントやらメタファーやらは感じるものの、それらは観終わってもすぐには繋げられず、物語の階層も良く分からず、ただ翻弄され足元の不確かな地面を歩いて行き続けるような感覚。ラストに晴れることを期待した霧は、余計に深くなって混乱のみを残します。

主演のジェイク・ギレンホールは一人二役ですが、大学講師のアダム、役者のアンソニーという二人の僅かな差異を見事に演じ分けていて、彼のベストアクトという声も納得。ただ、あるシーンでジェイクの乳首周りの毛の生え方に視線がいってしまい確認したかったことを見逃してしまいました。ジェイクの乳首周りの毛が!丸くて!乳首毛が!(落ち着け)アダムの恋人メアリーが『グランド・イリュージョン』でも美しかったメラニー・ロラン、アンソニーの妻ヘレンが妊婦姿もセクシーなサラ・ガドンと女優陣も魅力的。

観終わったあと1時間くらいずーっと考えて大筋は何となく分かったものの、それでもまだ全てのシーンに説明が付かなかったです。超不親切な作品なので、ワケ分かんないと投げ出したり怒ったりする人もいるでしょう。「自分と瓜二つの男」と言うからクローンとかドッペルゲンガーの類かと思いきや、SFでもオカルトでもない。ミステリーと言うより、描写の仕方や考察を促す作りはむしろ純文学に近いんじゃないでしょうか。観終わってから色々考えるのが楽しい。楽しいですが、正直1回観ただけで読み解くのはキツいぞこれ。

↓以下、完全ネタバレ。








最後にデカい蜘蛛が出てアダムがフハッとか言ってエンドロール、という入り方は『プリズナーズ』並の切れ味でありながら印象がまるで違いますね。とりあえず最後に来て明確に「現実以外の映像が混ざっている」ということに確信を持つことになります。その前に巨大な蜘蛛が街を闊歩するというどう考えても非現実な映像もありますが(つーか『ミスト』かと思った)、あれはロングショットなので何らかのイメージかと思って流しちゃってました。ひとまず蜘蛛に関しては一旦置いておきます。で、現実以外もありということは、夢とか幻とか妄想とか精神世界とかもありということなんですよ。そうなるともうあらゆる解釈が可能で、観た人ごとに考察が異なってもおかしくないですね。

1.アダムとアンソニーの関係

アダムとアンソニーが同一人物であるというのは大体一致する意見かと思います。見た目も声も生年月日も後天的な傷も同じ。どちらもメアリーやヘレンとの会話や肉体的なやり取りがあるので実体はありますが、二人がそろって他の人に会うシーンはありません。大学でヘレンがかけた電話にアンソニーが出るのはアダムが姿を消してからです。二人ともブルーベリーが好き。母親はアダムを一人息子だと言うし、「フラフラするな」というようなことを言うことから昔役者だったということも考えられます。母親に会うと言って出掛けたのはアンソニーのはずなのに母親と話していたのはアダムです。アダムがアンソニーに素直に服と車を渡したのも結局は同一人物で抵抗がなかったからでしょう。アダムがアンソニーに返したはずの「親展」の封筒はアダムのジャケットから出てきます。そして個人的に一番納得がいくのが、アンソニーがアダムに「手を見せろ」というシーンです。手は毎日自分で見てるから同じであることが一番実感できるんですね。これはジョジョ4部で東方仗助も言ってるので間違いないです(ジョジョ脳)。

アダムとアンソニーを分けて考えると混乱するので、二人を「アダムソニー」という一人の人物として見てみると、物語はこうなります。

「アダムソニーは大学講師。昔は役者もやっていたがパッとしなかったので引退。彼には身重の妻ヘレンがいるが、メアリーという恋人もいる。アダムソニーはメアリーと会うときはアダムとして、ヘレンと会うときはアンソニーとして接し、二重生活を送っていた。しかしメアリーに結婚していることがバレて喧嘩別れ、ヘレンにも浮気を疑われて牽制される。男とは欲望に抗えないものだなあ、とアダムソニーは思いましたとさ」

……ホントか?いまいちしっくり来ないぞ?しかし監督自身が「これは浮気をしている既婚男性の話で、彼が浮気相手から妊娠している妻のもとに戻るまでを潜在意識の視点から描いた」と言っているので、間違いではないんですよ。でもこれだけだと色々と納得がいかない、辻褄が合わないことも多いんです。この監督の言葉自体が罠の可能性だってあるのです。


2.主体の逆転

アダムとアンソニーはどちらが主体なのでしょうか。アダムがアンソニーを探すという展開、ラストにアンソニーが事故ってアダムが残ることから、主体はアダムだと思われます。端役の役者は勢いでも出来そうですが大学講師は簡単になれるとも思えないし。仮にアンソニーが主体であるアダムの疼く浮気性を人格化した存在であるとすると、アンソニーがメアリーに言いよってセックスに至るのは分かります。バスに乗ったときの舐めるような視線に抑えられない衝動が表れているし、ヘレンがアンソニーにかかってきた電話に対し「またあの女なんでしょう!」と過去の浮気を蒸し返すシーンもあるので、アンソニーはエロい行動に走る役割、言ってみれば衝動を抑圧された役割を担っていると見れます。抑圧担当ですね。

しかし、そもそも愛人であるメアリーと付き合っていたのはアダムの方で、話の中心である妻帯者がアンソニーの方なのです。ヘレンも旦那をアンソニーと呼びます。では逆にアンソニーが主体だと考えてみると、アダムとは一体何なのか。アダムが存在するのは大学で講義をするとき、メアリーと情事に耽るとき、アンソニーを追い求めるとき、母と話すときです。ヘレンに対しては会ってもまるで知らない風に接します。つまり妻ヘレンとだけは無関係な人格として存在するのです。アダムは妻という存在の縛りから解放されたフリーな人格、自由担当ということになります。自由に彼女とイチャつき、相手が求めてきても仕事をしたければするし、相手が寝てても構わずヤろうとする。自由だなあ。

それでいてアダムがどこか満たされないような、鬱屈とした感じを纏っているのはなぜでしょう。これは最終的にアダムとしてヘレンの元に戻ってくることから、結局は自由だと言うだけでは満たされず、本当に大事なのは妻だと気付くから、と考えられます。もっと穿った見方をすれば、妻がいるからこそ浮気が楽しいのだ、という風にも取れますが。ともかく自由担当のアダムが本来のヘレンの夫と言う位置に収まり、抑圧担当のアンソニーは事故で消滅する。主体が入れ替わるんですね。どちらにしろヘレンがアダムではなくアンソニーに対し「今日の大学はどうだったか」ということを聞くので、彼女はアダムとアンソニーが同一人物であることは知っているのでしょう。

ところがですよ、事の発端はそんな自由担当アダムが職場の人に勧められた映画の中で抑圧担当アンソニーを見つけ、強烈に惹かれていくところからなのです。しかも映画のタイトルが「道は開かれる」という示唆的なもので、そこからアダムはアンソニーになっていくのです。ラストはアンソニーが消えてアダムに戻るのだから、つまりアダム→アンソニー→アダムという流れになっているのです。しかもそれだけでは終わらず、さらにラストで「親展」の封筒に入っていた秘密クラブ(後述)の入り口の鍵、つまり浮気願望が顔を出し、再びアンソニーになりそうな予感を残す。つまりアダムとアンソニーは延々と繰り返される循環の関係なのだと思われます。こうなるとどちらが主体かはあまり意味を成さない気がします。


3.拡がる幻想

アダムとアンソニーが同一人物だとすれば、二人の会話シーンは現実ではなく脳内での会話による妄想世界ということになります。二人は実体として存在するので、二重人格か、あるいは過去と現在の自分、はたまた表層意識と深層心理の人格と考えられます。ホテルの一室でアダムとアンソニーが対峙するシーンは、二つの人格がお互いの存在を意識する場面なのでしょう。

冒頭の秘密クラブのシーンではメアリーらしき人物が服を脱いだりヘレンがヌードになったりしますが、これはアダム=アンソニーの深層心理を表したものと思われます。抑えこんだ欲望、二人の女の間での葛藤、服を脱ぐ女に群がる男たち、そんな情動に悩んでいる男に見えるからです。エロ願望ですね。指輪をしているのでアンソニーに思えそうですが、どちらが主体か分からない以上特定できません。ちなみにアンソニーのマンションを訪ねたアダムをエレベーターで案内する男は、秘密クラブ妄想の中の人物なので実際は存在しないものと思われます。カメラの外から話しかけてきた登場自体不自然だし、恐らく妻の元へ戻ろうとするアダムを誘惑する心の中の悪魔、それがビジュアル化したものでしょう。


4.蜘蛛の束縛

蜘蛛は様々な場面で現れます。街を巨大な姿で練り歩いたり。街の電線や割れた車のフロントガラスなど随所に蜘蛛の巣の模様も見られます。一番分かりやすいのがラストシーンですね。ヘレンが入っていった部屋の先にいたことからも、蜘蛛はヘレン=妻の象徴と考えられます。直前でアダムは秘密クラブの鍵を手に入れ「今夜は出掛ける」とアンソニー的セリフ、つまり浮気心を出すので、それを牽制するための姿だと思われます。秘密クラブで蜘蛛がメアリーらしき女性に踏み潰されそうになるのは浮気心の方が勝っているからでしょう。それでもラストの蜘蛛の出現でアダムは諦めたように苦笑するしかない。すっかり蜘蛛の糸に絡め取られてるんですね。

さらに蜘蛛の膨らんだ腹部は妊婦のそれのようにも思えます。アダムは妻だけではなく、これから生まれるお腹の子さえもプレッシャーに感じているのかもしれません。子供が出来たら浮気どころじゃないし。また、ラストの蜘蛛の直前に「母親から電話があった」とヘレンが言うので、ひょっとしたら蜘蛛には妻だけでなく母親も投影されてるのかもしれません。

アダムが自身の講義の中で「古代ローマの権力者は支配するために娯楽も与えた」と言ってますが、アダムがその娯楽=縛りのない存在でしょう。同じ講義の中で「(支配のために)教育を制限するという方法もある」とも言っていますが、「教育を制限」=「大学講師と言う立派な職業」ではなく「三流役者」のアンソニーを指すと思われます。結局アダムもアンソニーも妻に支配されている、ということを暗に言っているのかもしれません。

最初は原題の『ENEMY』が示す「敵」はアダムに対するアンソニーのことだと考えてましたが、ここまで支配されていることを描かれると、彼の行く手を阻む「敵」という意味でヘレンのことを指しているようにも思えてくるのです。


 ※

という感じで長々と解釈をしてみました。なんだか己の欲望だけを追い求めるクズ野郎の話みたいになった気もしますが、それも正解とは限りません。まだまだよく分からないところや気になる点も多いからです。ヘレンが「あの女」というアンソニーの浮気相手はメアリーだったのか?アダムがホテルの部屋に向かう廊下でカードキーを持って歩いていた女は誰なのか?メアリーに指輪の跡を責められるとき「前はなかった」と言われるけど、ひょっとしてメアリーと会っていたのは結婚前の過去なのか?アダムがメアリーと一緒に建物から出てくるということは情事の後だと思われるのに、それをアンソニーがじっと見てるというのは求めるの早すぎじゃない?ひょっとしてアンソニーの事故は現実でラストシーンは死後の世界なのか?等々。

そんな様々な思考を促されつつエンドロールで延々と続く高層マンションの風景を見ていると、この世界から抜け出せなくなりそうな感覚に襲われます。解読して秩序を見出そうとするほど混乱する、まさに「カオスとは未解読の秩序である」わけです。だから無理して論理的な整合性を求めず、映像と音楽の導くまま、役者たちの行動や行く末をありのまま受け止める、という観かたのほうが正しいのかもしれません。散々解読欲を煽っておきながらそんなことまで思わせてしまう、その作りに唸ります。


複製された男 (ポルトガル文学叢書)複製された男 (ポルトガル文学叢書)
(2012/10/22)
ジョゼ サラマーゴ

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