2014
06.30

突き放す、包み込む、惑わす。『サード・パーソン』感想。

Third_Person
Third Person / 2013年 イギリス / 監督:ポール・ハギス

あらすじ
3つの街、3組の男女、そして……



パリ、ローマ、ニューヨークを舞台に、複数の物語が同時進行する群像劇ミステリー。人物の背景や関係がよく見えないまま話は進み、何が真実か分からないまま観る者は3つの舞台を彷徨います。小説家とその愛人、胡散臭いビジネスマンとジプシーの女、息子を夫に奪われた元妻。ちょっとした引っ掛かりがありながらも、物語の展開自体に気を取られて観入ってしまいます。

各エピソードの合間は寝姿や足元などからのシームレスなカット、時には音楽によって繋がれており、観てるうちに感覚が狂わされてきます。また各シーンの長さもまちまちで、あるエピソードに十分引き込まれてたところで不意に次のエピソードが始まるのも目眩ましだったりしそう。そして露呈する真実に驚愕。

リーアム・ニーソンは微妙な表情の変化がとても良いです。オリヴィア・ワイルド演じる超めんどくさい彼女と付き合えるのはさすがです。僕には無理です。あとエイドリアン・ブロディの眉毛はなんであんなにハの字なんだ、というのがずっと気になってましたよ。ミラ・クニスはカワイイです。元女優が客室係に甘んじるという心情を、制服を持って何かを断ち切るように翻るところとかイイ。

繊細な演技の積み重ねが幻惑でもあり本質でもあるという、あまり例を見ない出来。感覚に訴えるミステリーですね。収束のさせ方が素晴らしく、キレ味もイイです。下手なこと言うとネタバレになりそう、という類いの映画だし、解釈も割れそう。ポール・ハギスの監督作はそういえば初だけど色々観たくなりましたよ。

↓以下、ネタバレ含む。ちょっと長いです。








包み込みながらも突き放すようなと言うか、恋愛とか母子の絆みたいなものを描きつつもどことなく儚げで不安定な印象、といったものが全編通して感じられる気がするんです。相手が若い愛人だからとか、悪い男に引っ掛かってとか、息子に会えない焦燥とか、そんな各人の抱える事情のせいもあるんでしょうが、何となく違和感を感じるんですね。

一番分かりやすいのは小説家が白バラを届けたホテルに客室係のジュリアがいることです。それぞれパリとニューヨークにいるはずなのでリンクするのはおかしいわけです。それ以前にジュリアが客室でメモを取っているときに客が帰ってくるシーンがありますが、ここでは客の顔は映りません。でもその後メモの裏に別の電話番号をメモするのは小説家なのです。実はここで既に整合性が崩れている、でも直接会ってないからシチュエーションがシンクロしているのだなと何となく飲み込んでしまう。他にも客室係のジュリアと客のアンナがすれ違うけど二人の顔は同時には映らないとか、スコットの近くでアンナが車に乗ってるようでも同時に両者は映らないので、これまたシチュエーションのシンクロなのかなと。

この何となくシンクロと見なしてしまうのは、小説家がしゃがんだ彼女の頭をそっと撫でるシーン、スコットが寝てる相手の足を撫でるシーンなどにも通じるものを感じます。しかしこちらは特におかしいところもありません。白バラに関しても、場面的には不整合がありながらアンナの態度とジュリアの態度が真逆であることに気を取られてしまう。そんな風に不整合のありなしを織り混ぜてるのも困惑させてくれます。

そんな積み重ねの上で明かされる真実は、これが子供を失った父親の話だということ。小説家の子供がプールで溺れて死んだ、ということですね。編集者が奥さんのことをよく立ち直ったと言うのもそのことでしょう。しかしそれまでは仕事の電話をしているわずかな時間での出来事としていたのに、実は愛人との電話中のことだったと明かされます。愛人と彼女の父親が肉体関係にあったというショッキングな事実をまだ引きずってるうちにそれは明かされ、なおかつそれを小説化していたのも驚きなのに、電話中の事故のことまで告白してしまう。

スコットの子供は目を離した30分にプールで溺れました。ロマ族の女モニカは子供のためと言いながら子供はいませんでした。ジュリアは子供に父のことを頼むと言って去ります。そしてアンナ親子の話は結果的に父から子供を奪うということ。皆に子供との別れがあり、そして彼らは皆マイケルの視界から消えていく。アンナでさえどこかに消えてしまうことから、全てはマイケル自身の創作です。そこにあるのは色濃い喪失感、そして子供に対する贖罪の意識もあるかもしれません。「彼自身の嘘の色も白」、それは原稿を書くページの色でもあるでしょう。思えばアンナと付き合っていた小説家は名前を呼ばれてないですね(たぶん)。Mというイニシャルは出るものの彼の書く小説内でも「彼」という呼称だし、マイケルという名はその小説の内容を明かす妻との電話の中でです。だからMとマイケルは別人と見れるでしょう。

ところがですよ、実際はそのマイケルさえ実在してないんですよ。最後に噴水に腰かける子供の姿を見るマイケルは、ラストに原稿を打ち込む小説家とはまた別の人物です。マイケルが本編で吸わないタバコを吸ってるし、左右の指一本ずつでタイプしてたマイケルと違ってタイピング速度も速くしかもタイプライターだったような(違うかも)。つまりマイケルという男、さえも創作。しかもこの人物は冒頭に出て来た人物であり、ラストに来てようやく繋がるのです。アンナと付き合っていた小説家Mが第1の男、それを書くマイケルが第2の男、そして彼らの物語を紡ぎ出した三番目の人物、カーテンを締め切った部屋で孤独に創作を続ける男こそが第3の人物「サード・パーソン」。そもそも彼が「ウォッチ・ミー」という、恐らく失った子供の声を聞いていることから、全てのエピソードは彼自身の話を元にしているのでしょう。そうなると全ては創作のための創作、第3の男以外全ては創作だったのだ、と思えるのです。

……と思うんですが、うーん、どうなんでしょう。正直一回観ただけでは拾いきれないところが多すぎです。第1の人物と第2の人物が本当に違う人物かもちょっと微妙だし(第1の男は第2の男の過去の姿であり同一人物かもしれない)、もっと細かいところにも意味ありげな映像があったりするので(腕時計とか)上記考察も合ってるのかどうか……という実に読み解きがいのある構成なんですが、それにも増して小説という虚構のなかにあるドラマ自体にも引き付けられるんですよ。そんなわけで、様々な描写が幻惑でもあり本質でもあるのではないか、と思えるのです。

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