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2019
09.05

全てを変えるひと夏の冒険。『サマー・オブ・84』感想。

Summer_of_84
Summer of 84 / 2018年 カナダ / 監督:フランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル

あらすじ
連続殺人鬼も誰かの隣人だ。



1984年夏のアメリカ。郊外の田舎町で両親と暮らす15歳の少年デイビーは、子供を狙い頻発している連続殺人事件の犯人が向かいの家に住む警察官マッキーではないかと疑い、友人たちと共に調査を始める。しかしその先には思いがけない事態が待ち受けていた……という青春ホラー。

郊外で起こる10代前半の少年たちを狙った連続殺人を背景に、少年たちのひと夏を描いたサスペンス・ホラーにしてジュヴナイルです。好奇心旺盛でオカルト好きな少年デイビーと、ニヒルなイーツ、お人好しのウッディ、科学好きのファラデイの四人は、しょうもない下ネタで笑いあったり年上女性のニッキーとの恋を夢想したりと思春期真っ只中。そんななか、行方不明の少年が隣人で独り暮らしの警官マッキーさんの家にいるのを見たデイビーは彼が殺人鬼に違いないと思い込み、その証拠を探り自分たちで事件を解決しようとノリで調査を始めます。果たしてマッキーは本当に殺人犯なのか?1980年代のスラッシャーホラーやサスペンス、青春映画への目配せもありつつ、隣人の知らない一面の不気味さをクローズアップ。80年代の持つ微かなノスタルジーのなか、15歳男子の調子こいた痛々しさに呆れつつも、真実がどちらに転がるかに見入ります。

グラハム・バーチャーの演じるデイビーは、ニヤケ顔やイキった感じがこの年代っぽさとしてよく出ています。悪友たちも多少ステレオタイプながら個性的。イーツ役の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』ジュダ・ルイスは冷笑的で、ウッディ役のケイレブ・エメリーは体はデカいのに臆病、ファラデイ役のコリー・グルーター=アンドリューはいわゆるメガネ君として理系っぽさがあります。デイビーの憧れる女性ニッキー役のティエラ・スコビーが見せるお姉さんのドキドキ感も甘酸っぱい。マッキー役リッチ・ソマーの、本当に犯人かどうかわからない演技は良かったです。

監督は「ROADKILL SUPERSTARS(RKSS)」というカナダの映像制作ユニットの三人だそうですが、この人たちチャリンコ・マッドマックスこと『ターボキッド』の監督なんですね。だいぶ洗練されたけど、色んなオマージュがあるところに通じるものがあるかも。そして冒険の高揚が恐怖に変わるとき、楽しかった子供時代は不可逆の人生へと変わるのです。ホラー的な怖さはそれほどでもないですが、別な怖さが後を引く、意外にもなかなかのシビアさを持つトラウマ映画。

↓以下、ネタバレ含む。








15歳男子4人が主人公と言えば『スタンド・バイ・ミー』を思い出しますが、いまノスタルジーを感じると言えばやはり80年代ということなんですかね。近年でも『バンブルビー』とか『IT イット “それ”が見えたら、終わり。』『レディ・プレイヤー1』など枚挙にいとまがないためそこまで新鮮でもないんですが、そこに過去の様々な名作への目配せを感じられるのが楽しいです。イウォークについて議論したり『未知との遭遇』を観ようと言ったり『グレムリン』の名が出て来たり。自転車はもろに『E.T.』だし、小物から音楽まで時代を感じさせます。牛乳パックに載っている行方不明者の写真で事態に気付くとか、携帯電話ではなくトランシーバーで連絡を取り合うというのも物語に活かされてますね。そんななか4人はデイビーの隣人マッキーが連続殺人犯だと睨んで調べ始めますが、エロ本を取り合うようなガキ共が考えなしに少年探偵団気取りで行動する稚気は見ていてイタく、マッキーがどう見ても善良な一市民に見えるので、彼らの親と同様に呆れそうになります。本当にマッキーはシロなのではと思うし、別に犯人がいて彼らが襲われたところをマッキーが救う、みたいな展開さえ予想しましたよ。

このマッキーさんが全然ボロを出さないんですね。怪しいと思えた体サイズの埋めた跡にも何もないし、血のついた子供のシャツは甥っ子のものだと言うし、貸し車庫で別の車に乗り換えるのもただの車好きの道楽の可能性もあるわけです。大量の土や薬品も町の美化運動と結び付くに至ってはどういう落としどころにするのかと心配になります。ただこれをデイビーたちの思い込みだと断定できないように、マッキーが家の前で遊ぶ子供たちを死んだ目で見つめる、というシーンを入れたり、甥っ子への電話がマッキーの自宅の電話だった、という明らかにおかしい行動などを挟んで疑いを持続させるのは上手いところ。電話のシーンは電話番号を覚えている昔ならではですね。余談ですが、最後にかけた番号を通知するサービスなんてあるもんなのか。あとソファでそれぞれ個別の小テーブルで食事するというのも不思議な光景。

でもその小テーブルのことも含めて、本作の肝は「他人の家庭のことはわからない」という不気味さです。「連続殺人鬼も誰かの隣人だ」と言うように、家の中では死体が転がっているかもしれない。それを探ろうとすると見なくてもいいものを見てしまうということですね。たとえ親友であっても同じことで、ウッディが泊めてくれと言うのも家庭の事情があるからだし(このウッディの母親が超美人)、イーツの家も両親が大喧嘩するような環境であることが後からわかるし、ニッキーも家庭の不和で引っ越しすると告げます。それでもマッキーの家を探ろうとするデイビー。なぜそこまでマッキーにこだわるのか?自分が正しいと証明したい意地なのか、ムーのようなオカルト雑誌好きだけに近くにだってミステリーはあると思いたかったのか。しかし彼の行動は正義感のように見えて、明らかに自己満足と承認欲求によるものです。それ自体は罪ではないですが、しかし後悔にはなり得る、というのが苦い。

マッキーが連続殺人に至った動機が謎ですが、自分の子供の頃の部屋を地下に作っていることから過去のトラウマとかそういうことなのでしょう。ただ重要なのはそこではなく、親しげに接していた隣人が予想を超える怪物だったときの恐怖です。これだけパトカーもいれば襲われないだろうと思ったら、まさかの盲点となる場所に隠れていたマッキーに拉致されるデイビーとウッディ。本来ならそれでも何とか逃げ出してギリギリ助かる、という話になりそうなところを、最もイイ奴であるウッディをいともあっけなく死なせるという展開は、あまりに容赦ないです。「親友を一人で行かせるわけにはいかない」という友情台詞にじんわりしてたのに、あれ死亡フラグだったの?ツラい。多くの子供たちの人生を奪ったマッキーが、デイビーに「俺の人生を台無しにした」と叫ぶという身勝手さの恐怖、そして「いつか殺しにくる」という呪いが強烈。

ウッディが自分のせいで殺され、イーツとファラデイとは疎遠になり、恋仲を期待したニッキーも結局町を去ってしまう。友人を巻き込み他人のスペースにズカズカ入り込んだデイビーが得たものは「連続殺人鬼も誰かの隣人だ」という最初の想定を実証しただけなのです。何という救いのなさ。何かが始まると思えたひと夏の冒険は、子供時代を終わらせ世界を決定的に変えてしまう。苦さもまた青春の一側面であることを残酷に突きつけるのです。

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