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2019
07.26

それぞれの幸せのかたち。『トイ・ストーリー4』感想。

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Toy Story 4 / 2019年 アメリカ / 監督:ジョシュ・クーリー

あらすじ
ゴーミだー!



新しい持ち主の女の子ボニーと暮らすウッディたちの元に、ボニーが幼稚園で作ったフォーキーがやってくる。自分をゴミだと言い張るフォーキーに君はおもちゃであると説くウッディ。そんななか、ボニーの家族に連れられキャンプに行ったウッディは、アンティークショップでかつての仲間であるボー・ピープに再開する……。ピクサー・アニメーションの『トイ・ストーリー』シリーズ第4弾にして最終章。

おもちゃの世界を舞台に描く『トイ・ストーリー』シリーズ。2010年の『トイ・ストーリー3』で完結かと思われましたが、本当に最後の物語として4作目が登場。アンディからボニーへと受け継がれたウッディたちの元にやってきたボニー自作のおもちゃであるフォーキーとのやり取りに始まり、2作目で姿を消したボーとの再会を経て、ウッディに大きな変化が訪れることになります。前作の感動的なラストで爆涙し、そこでキレイな形で終わっている3作目は完璧だと思えるだけに、4作目で何を描くのか、蛇足にならないかというのは非常に心配でしたが、そこはさすがのピクサー、前作の「おもちゃの幸せ」という観点からさらに一歩進めてみせます。ただこの結末が賛否両論になることは明らかでしょう。僕も最初は正直すごくモヤモヤしたものが残りました。もちろん笑いと涙とスリルと驚きでとても面白かったんですが、おもちゃとは一体なんなのかという根元的な疑問にまで行き着く展開には戸惑いを感じます。ただ、そういった反応は製作陣は当然想定してるだろうし、それでも本作が作られたことには意義を感じるのですよ。

ウッディ役の『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』トム・ハンクス、バズ・ライトイヤー役のティム・アレンなどレギュラー陣は続投。『ゴーストバスターズ』アニー・ポッツが19年ぶりの復帰となるボー・ピープ役で大暴れします。大暴れって、ボーってそんなキャラだったっけ?と思うんですが実際そうなのよ。また新キャラがどれも強烈で、トニー・ヘイルの演じるフォーキーはアグレッシブすぎる自己否定が凄まじいし、『ネオン・デーモン』クリスティーナ・ヘンドリックスの演じるアンティーク人形のギャビー・ギャビーはしたたかさと哀れさの同居が面白い。ぬいぐるみコンビはダッキー役が『ザ・プレデター』キーガン=マイケル・キー、バニー役が『ゲット・アウト』の監督ジョーダン・ピールです。そしてスタントライダー人形のデューク・カブーン役が『ジョン・ウィック』キアヌ・リーヴスというのをエンドロールで知って思わず吹きました。

監督は『インサイド・ヘッド』の脚本であるジョシュ・クーリーが長編初監督。とは言えピクサー作品でストーリーボードアーティストを担当していたということで、畳み掛ける展開の面白さは抜群。さすがにおもちゃたちは人前で動きすぎだし、声出しは反則だと思うし(今まであったっけ?)、続編だからこそなのか過剰なエスカレートは気になったんですが、そのギリギリな感じはむしろ今回のストーリーとも呼応しているのかもしれません。おもちゃの幸せは子供を見守ること。でもそれだけでいいのか?これは『トイ・ストーリー』だからこそ描ける物語だと言えます。

↓以下、ネタバレ含む。








自分は本来おもちゃではないという自覚のあるフォーキー。一番のお気に入りが自作のおもちゃという設定は結構目から鱗ですが、子供ってそういうのありますよね。フォーキーというキャラクターは恐ろしいほどの自己否定で、嬉々としてゴミ箱に飛び込もうとするクレイジーさが面白いんですが、このフォーキーの存在が、ウッディがボニーに遊んでもらえない現実からの逃避を促し、ボニーへの過保護すぎる対応を露にします。それはボニーにアンディのように幸福になってほしいという意識から来るわけですが、裏を返せばいまだにアンディへの思いが忘れられないということ。おもちゃの幸せが子供に遊んでもらうことだと前作で描いただけに、じゃあ遊んでもらえなくなったらおもちゃの存在意義はないのか、というところに踏み込むわけです。今までも『2』のプロスペクターや『3』のロッツォなどにもそういう視点はあったと思うんですが、今回はそれが長きに渡りシリーズの主役だったウッディで語られるというのがヘヴィ。でもこれはウッディというキャラに製作側が真っ向から向き合った上でのけじめでもあるでしょう。

フォーキーにおもちゃとして愛されることを説くウッディは「自分にはもう何も残ってない」と言い放ちます。ウッディは70年代のレアトイでもあるわけですが、そういった価値より子供に遊んでもらうことを重要と考えるウッディだけに、これはショッキング。もはや老兵としてボニーのためにできることをやるしかないという境地に至ったところで、物語のフォーカスはフォーキーから外れ、今度は子供と関わらず自由に生きるボーと、子供に愛されずアンティークショップに飾られるギャビー・ギャビーという二者へと移っていきます。ボーはおもちゃの存在意義にこだわらないという新たな道を示し、ギャビーはどんな手を使っても子供に愛されたいという思いを見せるんですね。ここで引っ掛かるのはおもちゃが「自由になる」という考えです。なぜおもちゃたちが動くのかと言えば、それは「子供たちを見守るため」だからだと思っていたのに、その子供たちの側にいるのを放棄して自由を得るのがおもちゃの幸せなのか?と思ってしまう。おもちゃの存在意義という軸と、おもちゃの自意識の解放という軸の噛み合わなさに戸惑ってしまうのです。

むしろギャビーの方がウッディに近い、と言うかウッディの本心を投影しているかのようでもあります。もちろんウッディの発声器を奪おうとする行動はヴィラン的ではあるし、フォーキーから聞き出した情報によりウッディを言葉で落とすのも周到さが感じられるんですが、そこまでしてでもハーモニーに気に入られたかったギャビーが、ハーモニーから全く相手にされなかったときの絶望感には心が抉られます。それだけに迷子の女の子がギャビーを拾ってくれるシーンには心底ホッとしてしまう。ならばウッディもそういう道を選ぶのか、と言えばそうではなく、ボニーの元を去るという決意をすることになります。その決意はバズの「ボニーは大丈夫だ」という言葉によるわけですが、これはバズが「心の声に従う」ということを学んだから言えたものでしょう。自ら考え動くおもちゃたちというのはもはや「心がある」のと同義です。なぜおもちゃたちが動くのか、それは心があるからだ、と素直に考えれば、自分で考えて生きるという在り方も認めざるを得ないです。そして「見守る」という行為はいつか子供が成長したときには過保護になる可能性もあります。だから子供を自立させることにも繋がる、つまり「親離れ」させるための「子離れ」の決意でもあるんですね。

それでも仲間たちとの別れは寂しいもの。今回はシリーズ最高に人だかりで平気で動くし、見つかる危険を犯して走り回るし、声でナビのふりまでしてさすがに人前でやりすぎだとは思いますが、おもちゃたちの連携はやはり面白い。バズはなんかちょっとマヌケになった気がしますが、前作で初期化されたことが響いているんだろうか?久々登場のボーは以前はヒロイン的な立ち位置だったのになんであんなに動けるんだ、しかも陶器なのに、とは思いますが、杖を武器にしてのアクションはなんかもうジェダイか!というくらいカッコいい。新キャラではダッキー&バニーが抜群にいいですね。ずっとくっついてるけどあれは物理的にそうなのか?彼らの作戦がいちいち血生臭いのが笑えます。カブーンはいまだに持ち主の子供を思って跳べなくなるという悲しみはありますが、こちらはギャビーと違って笑いの方に寄せられてるのが気の毒でもあります。頑張って走ってほしい。あとベンソンがホラーテイスト満載で怖いです(実は気のイイ奴だけど)。

本作を誰かのために尽くす生き方と自分のための自由な生き方という、おもちゃに限らず人間にまで拡大解釈すべきテーマなのかは迷うところですが、少なくともウッディの選択は決して人間との決別ではないのでしょう。売りの一つだった音声はもう出すことができないけれど、新たなおもちゃたちを子供に引き合わせるという、かつて自分がアンディと築いたような関係を増やそうとするのがウッディらしい。自ら引き際を決めて後進のために生きることにしたと捉えると、これは『カーズ クロスロード』にも通じます。現状維持の是非という普遍的な問いへの、苦みも込みの解答でもあるわけですが、ただ苦いわけでもありません。おもちゃが幸せということは、つまりおもちゃと遊ぶ子供が楽しんでいる状態でもあるということです。そんな関係を作るためにある意味「攻め」へ転じるウッディが、ジェシーに「守る」者の象徴であるシェリフバッジを託すのは自然な流れ。その選択が過去に囚われるのではなく未来へと進む道であることは、バズの「無限の彼方へ」に「さあ行こう」と呼応することにも示されます。そしてそんなウッディの精神はかつてゴミだと思い込んでいたフォーキーが新たな自作の仲間におもちゃの素晴らしさを説く、という形で受け継がれているのです。あえてもう一段階進めたからこその深み。苦いけど、それでもこの先の不確かながら希望的な未来が感じられるのです。

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