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2019
03.22

ある家族の悲しさと優しさ。『ROMA ローマ』感想。

Roma
Roma / 2018年 メキシコ、アメリカ / 監督:アルフォンソ・キュアロン

あらすじ
家政婦は見た。



70年代初頭のメキシコシティで、医者のアントニオと妻ソフィア、その4人の子供たちと祖母が暮らす中産階級の家庭。そこで家政婦として働く若い女性クレオは、家事や子どもたちの世話に追われる日々。そんななかでクレオは同僚の恋人の従兄弟である青年フェルミンと恋に落ちる。一方でアントニオは長期の海外出張へ赴くことになるが……。『ゼロ・グラビティ』『トゥモロー・ワールド』のアルフォンソ・キュアロン監督によるヒューマン・ドラマ。

Netflix配信作品でありながら、第91回アカデミー賞10部門でノミネートされ、外国語映画賞、監督賞、撮影賞を受賞した作品。「ローマ」はイタリアの都市ではなくてメキシコシティの一地区を指してるそうで、1970年代の政治的混乱のさなかにあるメキシコで暮らすとある中産階級の家庭を舞台に、子供4人を抱える家族と若き家政婦の日常を、全編モノクロ映像で描きます。脚本と撮影も自ら手掛けたキュアロン監督が自身の子供時代を反映させたという本作、これがもう全てが素晴らしい。どこを取ってもシビれるような独特のショット、ゆったり往復したり横移動したりの長回し、モノクロなのにビビッドな映像などがとにかく美しくて、白黒だけどデジタル撮影というのが非常にクッキリした陰影と奥行きを与えます。劇判は一切なく、代わりに周囲から奔流のように聞こえてくる音の豊かさが必要以上の没入感。そして日常に始まり、崩れた日常を取り戻すまでのツラくも優しい愛の物語。心を揺さぶられる至福の映画体験です。

物語の視点を担うクレオ役のヤリッツァ・アパリシオは演技未経験だそうで、それでいてアカデミー主演女優賞にノミネートまでされる快挙。ソフィア役のマリーナ・デ・タビラは元々女優さんですが、これまたアカデミー助演女優賞ノミネートという賞づくし。決して派手な作品ではないし、どこが面白いかというのも説明しにくいんですが、淡々と進むなかで放り込まれる異質さや、数々の死を思わせるシーンに容赦ない現実を感じて見入ってしまいます。あらゆる自然音に囲まれての臨場感は凄まじく、犬のフンや車庫入れなどの繰り返しに日常を見て、クズ野郎たちに憤り、切り取られた空と横切る飛行機の遠さに心惹かれる。家族がより家族となる海のシーンはあまりの美しさに震えます。

アカデミー賞発表前に観ようと思って観れてなかったのが、このたび日本でもめでたく劇場公開されたので鑑賞しましたが、明らかに映画館向けの作品なので観れる人はぜひ。観た後すぐにNetflixでも観れるというのは至福です。

↓以下、ネタバレ含む。








地面に流される水に徐々に建物で切り取られた空が映り、そこを飛行機が横切るという冒頭、閉塞感と開放感を同時に感じるような観たことのないショットなのが凄い。吹き抜けの家の中をゆっくりと左右に振りながら撮るワンカットでは、部屋の構造を把握しつつそこで動くクレオの動線に彼女の生活範囲が垣間見れて、ここが彼女の日常であることを意識させられます。外を歩くときに横移動しながらのワンカット長回しも多いですが、先に駆けていった子供たちを探すクレオの姿に言い様のない不安を感じたりなど、何かしらの効果が付与されているのは面白い。あと車庫が映ると必ず犬のフンが大量に落ちていて、犬のボラスの脱糞量にちょっと笑っちゃうんですが、平穏な日でも悲しいことが起こった日でも常にフンが落ちてる、というのが地続きの日常を強く印象付けます。映画館がよく映るのはキュアロンが通っていたという記憶なんでしょうかね。

クレオはたまに奥さんのソフィアに叱られたりしますが、それはちょっと八つ当たりだったりするので基本的には上手くやれているのでしょう。子供たちにも好かれていて微笑ましいんですが、でもどこか家政婦とその雇用主たちという壁はあるのか、妊娠がわかってソフィアに相談したときも「クビですか?」と泣きながら聞くのが痛々しい。これは彼女がメキシコの先住民族ミシュテカであり、言語もスペイン語だけでなくミシュテカ語を話すという出自の違いもあるのでしょう。ソフィアはちゃんと病院に連れていってくれますが、産婦人科医が性交渉いつ?みたいにものすごいズケズケ聞いてくるので不安が煽られます。

しかもその原因であるフェルミンは、妊娠を聞いた途端に映画館を出ていって戻らず姿をくらますというクズ野郎。最初「喜ばしい」みたいに言うのも上着を置いていくのも、すぐに探されないようにするためなんでしょう。フェルミンがクレオの見てる前で「武術に救われた」とか言って剣道と空手が混ざったような不可思議な武術の演舞を披露しますが、結局それは自分を力強く尊大に見せるためのパフォーマンスであり、それがフルチンで行われるのもフェルミンの男根主義的な有り様を表しています。彼を探しにきたクレオに対し「お前も赤子も殺してやる」と凄むという、あまりの無責任さと薄っぺらさが非常に腹立たしい。一方で道場にやってきたヨガ先生が片足で立っても微動だにしない、というのを唯一クレオだけが出来るというのは、彼女の真っ直ぐさを表現してるようで面白いです。この先生の背後でも飛行機が飛んでいくんですが、手の届かない自由みたいな感じがあります。

フェルミンだけでなく、家族を捨てて愛人の元へ行くアントニオ医師とか、ソフィアに「必要だろう」と言い寄る男とか、出てくる男はクズばかり。アントニオが車庫入れするシーンは車幅ギリギリの車庫に物凄い慎重さで止めますが、そこまでギリギリなのにデカい車に乗ることをやめないというところに見栄やプライドみたいなものが窺えます。逆にソフィアは豪快にぶつけながら車庫入れというのが(酔ってたせいかもしれんけど)閉塞感を打破したい思いを感じさせるし、もっと小型の車に買い換えてスーッと車庫入れするところには新しくやり直そうという意思を感じます。女性たちが本当はツラいのに受けた傷に負けまいとする姿、そこには生きることの厳しさと生きるための強さが見られます。

物語の背後にある社会情勢の不穏さは、いつの間にかクレオたちの側にも忍び寄ります。家具屋にいる際に突如勃発する、政府への抗議デモの若者たちと弾圧する体制側との衝突。そしてクレアの前に偶然現れる銃を構えたフェルミン。彼が一瞬クレオを撃とうかと逡巡するように見えるのが恐ろしい。と言うか、胎児の父親でありながら死を与える者の象徴のようであるフェルミンが恐ろしい。死を連想させるシーンは随所にあって、クレオが屋上で末の子と寝転がって「死んだから動けない」という会話であったり、地震が起こった際に病院で新生児のケースの上に落石してそこから墓標が映るカットに繋がったり、正月の親戚一同の集まりでクレオが新たな命に乾杯しようとしたらグラスが落ちて割れたり、犬の首の剥製が壁一面にあってやがてそこに仲間入りするであろう生きた犬がやってきたりします。正月の生き生きした騒々しさから一転、突然の山火事というのも不穏で、その中でなまはげ(違うけど)の人が朗々と歌うのが何とも言えない趣。そして極めつけがクレオの死産です。

だからラストの海岸シーンでは、幼い子供たちもまた波に飲まれてしまうのではという死への恐怖に囚われます。砂浜からすぐのところなのに凄まじい迫力の波の音、浜から海の中まで平行撮影でぐんぐん進むカメラにはどうやって撮ったんだ凄いなと思いつつも、泳げないというクレオは海の中に入っていくし子供たちの姿は見えないしで手に汗。子供二人の頭が波間に見えたときには声が出そうになるほどです。そうして助かったあと、寄り添った家族の真ん中に陽の光が差し込むショットは奇跡的な美しさ。「産みたくなかった」という言葉を絞り出したクレオは、皆に家族として迎えられてようやく死の影から逃れられた、その眩しさがあのショットなのでしょう。

日常が傷を負って血を流しながら壊れていき、その痛みを乗り越えてまた新たな日常を取り戻す。話としては地味かもしれませんが、そんな誰にでも起こりうる悲しみと誰もが持ちうる愛情を、美しい映像で包み込みながら見せてくれるのが素晴らしい。ラストで屋上の向こうに広がる空は晴れ渡り、そこにまた飛行機が横切っていく。でもそこに閉塞感はなく、清々しいこれからを予感させるのです。

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