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2019
02.12

壮絶な踊りが赤く染める宴。『サスペリア』感想。

suspiria
Suspiria / 2018年 イタリア、アメリカ / 監督:ルカ・グァダニーノ

あらすじ
決してひとりでは見ないでください。



1977年のベルリン、著名な舞踊団に入団するためアメリカから来たスージー・バニヨンは、カリスマ振付師マダム・ブランのオーディションで大きな役を得る。しかし周囲ではダンサーたちの不可解な失踪が相次ぎ、やがて恐ろしい事態が起きることに……。名作ホラーをリメイクしたサスペンス・ホラー。

1977年のダリオ・アルジェント監督作『サスペリア』を『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督がリメイク。世界的舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」に入団するためボストンからベルリンにやってきたスージーが、舞踊団で起こる失踪事件に巻き込まれていきます。いやこれは凄い。何が凄いって登場人物や舞台はオリジナルをなぞってはいるものの、元の要素を換骨奪胎されほぼ別物と言える作品になってるんですね。視点が真逆と言ってもいいほどの大胆なアレンジなのです。徹底して晴れない不穏さ、明かされない真実、明かされても理解しがたい闇深さにどんどん飲み込まれていく感覚が凄い。一方で心理療法士のクレンペラー博士が失踪した少女の行方を探るという要素が足され、舞踊団の闇を外部からも映し出していきます。そして女たちの息遣いや身体を駆使した末の異界の開闢。ドイツが舞台である意味。凄まじいです。

スージー役には『フィフティ・シェイズ』シリーズのダコタ・ジョンソン。このスージーからして振り回されるだけのオリジナル版とはちょっと違うんですよ。あと舞踊シーンがエキサイティングで、これは圧倒的に良い点でしょう。同じくダンサーであるパトリシア役に『イコライザー』クロエ・グレース・モレッツ、サラ役に『ニンフォマニアック』のミア・ゴスというオリジナル版にも出てきた名前も。そしてマダム・ブラン役には『ドクター・ストレンジ』『スノーピアサー』のティルダ・スウィントン。何かまたとんでもない役柄かと思ったら、キビキビと舞踊の指導をしつつもそこまで鬼でもない印象なのが意外。実は一番の驚き要素を孕んでいるんですが、それは劇中では明らかにされないんですよ。そこに隠された狙いがあるということでしょう。

バレエではなく舞踊になっているとか、印象的だった屋敷の赤さがないといったオリジナル版との差異に最初はあれっとなるんですが、それらも全て計算ずく。ラストの壮絶な赤が容赦ないえげつなさで、見たことのない恐怖に正気を失いそうになるほど。不意に予期せぬ方から響く音、激しく艶かしい息遣いなど音の使い方もスリリングだし、イギリスのバンド「レディオヘッド」のトム・ヨークが初担当した音楽も効果的。非常に難解に思えますが、そのぶん見応えがあります。

↓以下、ネタバレ含む。








■肉体と精神

オリジナル版ではバレエだったのが舞踊に変わったというのは似てるようでかなり印象が異なります。見た目が優雅さから前衛的なものに変化し、より肉体性が強化されたと言えるでしょう。踊ることによる躍動感がより強く前面に出るのと同時に、マルコスが新たな肉体を求めているということにも通じています。さらに人間の身体が多彩な表現力を持ってることと、人間なんてただの肉の塊だなあということを両方味わせるのが凄いです。スージーが踊るたびにバキバキ畳まれていくオルガ、腕は折れ、顔は歪み、失禁までした末に肉の塊として鉤爪でブッ刺して運ばれる、というのがエグい。生と死の表裏一体というものではなく、人間の体そのものへの冒涜というか、精神性を重視するゆえの肉体性の軽視というか。サラの折れた足をブランがあっさり治したり、マダムたちが刑事の下半身を弄んだり、ラストにヨーゼフが裸にひんむかれるのもそういうところに繋がっているんじゃないかなと思うのです。


■虐げられた歴史

本作は一言で言えば「魔女」を巡る話であり、それはオリジナル版でも同様ですが、オリジナル版には感じられなかった1977年のドイツの時代性や社会情勢というものがかなり色濃く反映されているのが特徴的。ドイツ赤軍によるハイジャック事件のニュースが流れ、東西の壁に阻まれた夫婦が描かれ、ファシズムによるホロコーストの傷跡も垣間見えます。これらは権力に抗おうとして失敗したり、権力の行使により人生を狂わされたりした人々の歴史なわけですが、そこに魔女の虐げられた歴史を重ねて見せるということなのでしょう。舞踊のタイトルが「民族」というのも意味深。舞踊団の建物はゴシックな雰囲気を感じさせつつ、大きな窓という開かれた世界、それを覆う巨大なカーテンによる断絶、稽古場を写す壁一面の鏡に投影されるもうひとつの世界、といったメタファーにも見えます。一見無関係なヨーゼフの話にフォーカスしていくのも、虐げられた魔女という存在とホロコーストにより収容所で死んだ人々を重ね、自身は難を逃れて生き延びたヨーゼフに全てを目撃させるという意味があるのでしょう。

このヨーゼフ・クレンペラーの演者はルッツ・エバースドルフという名前がクレジットされていますが、実はそんな人物は存在せず、その実態はブラン役のティルダ・スウィントンがヨーゼフも演じているんですね。若干声が高めの爺さんだなとは思ってましたが、ち◯こまで映ってたのにマジか!と驚愕。当然観てるあいだは気付くはずもなく終わった後に知ったことなんですが、さらに驚きなのは腐った肉塊のようなマザー・マルコスまでもティルダ姐さんが演じているということ。一人三役なんて言われないとわかんないよ!このキャスティングから考えるに、若い肉体を求めるマルコス、老いた肉体を晒して生きるヨーゼフ、その中間に位置するブランという役回りでしょうか。それぞれの立場を同じ人物が演じるというところにも、肉体性を越えた精神性の重視が感じられます。またマルコスがファシズム的な立場だとすれば、それに異を唱えるのがブラン、翻弄されるのがヨーゼフとも見れます。


■解放への導き

しかしそんな肉体の軽視や歴史的立場の代替を意に介さない存在がスージーです。肉体が限界を迎えたマルコスの新たな器となるはずだったスージーが、実は本当の親玉であるマザー・サスペリオルムであると明かされる衝撃。悪魔のようなものを召喚してマルコスを殺し、マルコスに従うマザーたちを次々と惨殺して、躍り狂う女たちによる儀式は血の饗宴へと変貌します。これが強烈、かつ恐ろしい。この絶望感はあれだ、『ベルセルク』だ……。スージーがいつからサスペリオルムになったのかはよくわからなかったんですけど(ブランと部屋で二人きりで話す時点で既にそうだった?)、サスペリオルムが転生したのがスージーだったということなんですかね?スージーには小さい頃に母から虐待を受け、その母が病床にいるという背景がありますが、そこにマルコスの「本当の母を殺さねばならない」という言葉を受け、母が絶命すると共に完全なる覚醒を迎えた、というところでしょうか。スージーは母の抑圧から解放され、今度は母としてマルコスたち娘を亡き者にしていくわけで、何とも壮絶な母娘関係。

そして肉体に精神を閉じ込めたマルコスに対し、サスペリオルムは逆に精神を解放していくのです。パトリシアやサラには死を与えることで地獄の宴から解放します。そしてヨーゼフに対しては、彼を苦しめるであろう舞踊団に関する記憶を消し去り、さらには彼を苦しめてきた生き別れの妻アンケの記憶をも消去します。「人には罪の意識、恥の感覚が必要だ」としながらもサスペリオルムがヨーゼフの記憶を消すのは、「娘たちのしたことは残念だ」とマルコスが企てた幻想での支配を憂えているように、ヨーゼフを妻が苦しんだという幻想の支配から解放してやろうという慈悲なのでしょう。記憶を消す前に妻アンケの最期が決して孤独なものではなかったと語ってきかせるのもその一助なのでしょうね(ちなみにアンケ役はオリジナル版のスージー役、ジェシカ・ハーパー!)。何かを失い涙するヨーゼフと、それでも残り続ける壁のイニシャルがせつないです。

肉体性と精神性で人間を超越した魔女の在り方を描き、ドイツと魔女の虐げられた歴史を重ね、母と娘の対立を通し、解放へと導く。何だか凄いことになってますが、これだけの要素を詰め込んだらそりゃあ難解にもなりますよ。色々書きましたが正直もう一度観ないと自信ないところもあります。ブランが生きていたのも謎だし(サスペリオルムが正しい者として生かした?)、エンドロール後の映像でスージーがこちらに向かって何かをするのもわからないし(観客の記憶も消そうとしたとか?)。でもわからないなりに考えてみるのが面白い類いの作品ではあるでしょうね。ホラーの形で描く知的な挑戦はアグレッシブだし、館が赤くない代わりにクライマックスは全てが赤く染まるというのもインパクト絶大。なんというかもう、無事に帰ってこられてよかったです。

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