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2019
01.15

生きるのは大抵ツラく、稀に美しい。『生きてるだけで、愛。』感想。

ikiteru_dakede_ai
2018年 日本 / ]監督:関根光才

あらすじ
見つかっちゃう。



鬱と過眠症で引きこもっている無職の寧子は、同棲している恋人の津奈木に当たり散らす日々。そんなとき津奈木の元恋人という安堂が現れて、津奈木とヨリを戻したいから出ていけと言われた寧子は、安堂の紹介で無理矢理カフェバーで働かされることに……。本谷有希子の同名小説を映画化したドラマ。

自分の感情を上手くコントロールできず躁鬱で苦しむ女性、寧子を描くお話です。鬱期に突入して引きこもり、同棲中の恋人・津奈木には難癖付けまくる無職の寧子。しかも過眠症という睡眠障害も患っており、とにかく起きられない。端から見れば正直大変めんどくさいです。やる気がないわけではないのに、バイトの面接を受けようとしても寝過ごしてしまい、また自己嫌悪に陥る。そんな寧子の姿を延々と見ているうちに、彼女の「見つかっちゃう」という怯えが痛々しく響いてきて、鬱陶しいながらも目が離せなくなります。またそんな寧子に振り回されながら、自身も苦境に陥っていく津奈木。そんななか現れる津奈木の元カノ・安堂により、寧子は変われるかもしれないと思い始めます。

寧子役は『勝手にふるえてろ』で金髪店員だった趣里。限界を迎える姿や不意に見せる危うさ、自身の否定をギリギリ耐える姿がとても良いです。ゴシップ雑誌の編集者である津奈木役は『溺れるナイフ』『帝一の國』菅田将暉。台詞少なめの抑えた演技ながら目で見せる思いというのがイイ。津奈木の過去の恋人らしき安堂役の『土竜の唄 香港狂騒曲』仲里依紗は、全く目が笑ってないサイコパスな感じが面白いです。他に、寧子を受け入れようとするカフェバーの夫婦役に田中哲司と西田尚美、ゴシップ紙のゲスい編集長役に松重豊といった布陣。監督の関根光才はカンヌ国際広告祭でグランプリを受賞してるそうですが、長編映画の監督はこれが初とのことで驚かされます。

他の人が普通にできることができない寧子には、生きてること自体がツラい。寧子と暮らすことで自らも追い詰められていく津奈木もツラい。そう、生きることはツラいわけです。でも生きるに値する一瞬は確かにあるんだという救い。良かったです。

↓以下、ネタバレ含む。








■ギリギリで生きる

最初は寧子のグダグダ具合がただ単に甘えてるだけではないのか、というふうにも見えます。買ってきた弁当を津奈木に食べたい方を聞いた上でそっちを取ったり、プレゼントした手袋を津奈木が着けてないからといってその場で着けさせたり、「いま鬱だから」と宣言して自分に罪がないことを強調したりと、とにかくめんどくさい。ただ本当に寧子が病んでいるというのがわかってくるにつれて痛々しさの方が増してきます。津奈木と出会ったときに言う「みんなに見つかっちゃう」というのも、自分の駄目さ矮小さといったものが見透かされることへの恐怖です。つまり自信のなさからくる自己否定で死にたくなるのを必死に耐えてそれでもダメで、その結果の引きこもり。若い頃に全身の毛を剃ったという狂気じみた逸話も、周りの目が怖いから、傷付く前に自らブチ壊したかったのでしょう。

特に過眠症に関しては自分でもどうしようもないだけに余計に自己嫌悪が募ります。叫びながら、剃刀を窓の外に投げ捨てるのには本当にギリギリ感が。たまには津奈木に食事を作ろうと一念発起するシーンはさらに痛ましくて、ハンバーグを作ろうとしたら材料のひき肉が売り切れ、手に取る玉ねぎがどれも痛んでる、味噌を買い忘れる、レンジでブレーカー落ちるの連続コンボ。他者に対しても自分なんかという意識が強くて、津奈木に対しては言いがかりのように怒るのに、理不尽なことを言う安堂には恐縮至極という感じ。逆に言えば寧子にとって津奈木は自分のダメさをさらけ出せる人物でもあるわけですが、でもそれは津奈木が何も言わない、あるいは言ってほしいことを言ってくれてるだけだからで、寧子がイラつくのもそのためです。


■わかりあえないままに

怒りや苛立ちが自分の内に向かってしまう寧子とは逆に、安堂はそれを外へ向ける人物として描かれます。自分は働いているのになぜ津奈木はこんな女と、と彼女もまた自分自身からは目を背けて生きているんですね。仲里依紗の目をひんむいての笑顔は明らかに常軌を逸しててヤバいです。寧子が安堂に強く言えないのは、コミュ障云々以上に迫力に押されてるのもあるよなあ。一方津奈木は自殺した女性の記事について自分じゃないからと言い聞かせ、やりたいこととは程遠い仕事に疲弊しきっています。自分を殺して生きていて、寧子と正面から向き合う気力もない。めんどくさい女ばかり寄ってくるのには同情しなくもないですが、「困ってることがある」という寧子への超冷たい視線には溜め込んだものの大きさが窺えて震えます。そりゃノートPCを窓から放り投げたくもなりますよ。わかるなあ。そして家でも仕事でも頭ごなしに要求されるばかりで、誰も津奈木に何かを与えようとしないのが悲しい。

あとカフェバーのマスター夫婦とバイトの莉奈さん、無条件で寧子を受け入れるし遅刻しまくっても許してくれるし「大丈夫だ」「家族のようなもの」とまで言ってくれてスゴく優しいんだけど、それは寧子のことを理解してるから、というわけではないんですね。「働かされてるという意識が強いんじゃないか」というのは良かれと思っての説教でしょうが過眠症のことを理解してない精神論だし、寧子の「ウォシュレットが怖い」というのを全く受け入れないことからも、寧子の価値観を同等に見ようとしているわけではないのです。そしてトイレで聞こえてくる彼らの本心。それは悪口というほどではないかもしれないけど、寧子にとっては「見つかっちゃった」ということであり、彼女という人間をそのまま受け入れているわけではないと気付いてしまうんですね。結局は、終わってるだの何だの言われながらもお互い言いたいことを言い合っている姉との関係が、寧子には結局一番ラクなんでしょう。


■一瞬があるから

バイト先を飛び出して服を脱ぎながら走り続ける寧子と、それを追う津奈木。屋上で「復活だよ」と全裸で言うときの寧子は普通じゃないんだけど、文字通り全てを脱ぎ捨てて自由になった姿はとても美しい。その姿じゃないと言えなかったのはまさに裸の本心。寧子の言う「生きてるだけで疲れる」というのはあると思うんですよ。そして「同じくらいのエネルギーで疲れてほしい」という、それこそが他者と生きるということでもあるでしょう。それが依存かと言われれば否定はできないけども、「私は私と別れられない」というツラさは胸に刺さります。誰しも自分自身からは逃れられない、だからそんな自分をわかってくれる他人を求めてしまうのです。

津奈木は寧子と付き合った理由を、頭から血を流しながら走るときに青いスカートが揺れて綺麗だったから、と述べます。そして「寧子のこともっとわかりたかったよ」と、寧子を理解して付き合っていたわけではないことを明かします。でも互いを本当に理解し合ってる人なんてどのくらいいるんでしょうか?「わかりあえたことなんて一瞬」というのはまさにそうなのかもしれず、その一瞬こそを愛と呼ぶのであれば、人がわかりあえる一瞬を求めて生きることも腑に落ちます。そしてまたもやブレーカーが落ちた部屋で踊る寧子、というラストは、その一瞬を新たに紡ぐシーンであるからこそとても美しいです。

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