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2018
12.17

祓え、弱さを抉る悪意。『来る』感想。

kuru
2018年 日本 / 監督:中島哲也

あらすじ
オムライスの国に~♪



妻との幸せな生活を送る田原秀樹は、職場の後輩に来訪者がいると言われ出向くが姿が見えない。その来訪者はまだ産まれる前の娘の名をなぜか知っていた。2年後、周囲で次々と不可解な出来事が続き、恐ろしいものがやってくる恐怖を感じた秀樹は、友人のつてで霊感を持つ女性・真琴を紹介してもらうが、事態は大変な方向に……。澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』を映画化したホラー。

「第22回日本ホラー大賞」で大賞に輝いた澤村伊智『ぼぎわんが、来る』を、『告白』『渇き。』の中島哲也監督により映画化。幼い頃にニアミスした「何か」に怯える自称イクメンパパの田原秀樹、その妻の香奈、そして秀樹が調査を依頼するオカルトライターの野崎と視点を変えながら、得体の知れぬ恐ろしい存在と対峙していくというお話です。しかしこれが普通のホラーとは違う異質さ。原作を先に読んでいて、これが非常に良くできていて面白かったんですが、この原作を映像にするとここまでえげつないのかと思うほど、特に前半はへヴィな人間模様。初っぱなから地獄のようなヤダ味でとことん追い詰めてきて、襲いくるアレより人間の方がよっぽど怖いと思わせる暗部の連続に飲み込まれます。しかしその合間に不可解な不気味さを挟みつつ、後半は別の地獄が立ち上がり、そして映像でやるからこその終盤のスペクタクルには激アガりです。

役者陣が皆イイ。田原秀樹役の『愚行録』妻夫木聡は軽薄さと気持ち悪さが突き抜けていて、ここまで不快に思わせるのがさすが。田原香奈役の『リップヴァンウィンクルの花嫁』黒木華は追い詰められていくのが不憫なんだけど、その先に見せる狂気の笑顔に震えます。野崎役の『散り椿』岡田准一は、アウトローな風貌の裏に優しさと弱さが透けて見えるのが秀逸。そしてこの不穏な事象に立ち向かう比嘉真琴役の『恋は雨上がりのように』小松菜奈はもうビジュアルも演技も全て最高だし、その姉・比嘉琴子役の『ジヌよさらば かむろば村へ』松たか子のクールさも最高。この姉妹最高。最高です(しつこい)。野崎の友人・津田役の『沈黙 サイレンス』青木崇高が見せる本性や、高梨役の太賀が豹変するのも闇深くて震えます。しかし一番驚くのは逢坂セツ子役の柴田理恵。あんなカッコいい柴田理恵は見たことがないぞ。バラエティのイメージが吹っ飛びます。

原作からの人物の設定変更やラストの改変などはありますが、それは想定内。ただロジカルでしっかりホラーだった原作に比べると、本作は「ホラー映画」という枠に入れていいのか迷います。カットの切り替えが早いテンポのよさもあってホラーらしい恐怖感は薄め。ただ描かれる人間暗黒劇場は尋常じゃない歪みですが間違いなく実際にあるだろうし、そんな醜さを遠慮なく描き出す中島哲也が怖い、とは言えます。でも電話の声が重なるシーンなんかはビビりましたよ。何より一大霊能バトルが展開されるのが最高。映画のあと原作読んだ方が救いがあるかもしれないな、と思いつつ、映画の終わり方も嫌いじゃない。とても面白かったです。

↓以下、ネタバレ含む。








■悲しきクズ野郎の行く末

葬儀のあとの秀樹の実家シーンからしてまあヤダみが凄いこと。親戚一同が集まって騒がしいシーンは『サマーウォーズ』でのそれが全く健全に思えるほどで(実写だというのもあるけど)、失敗して帰郷した者がいたり子供たちの暴れっぷりが半端なかったり親戚の女子に抱き付くセクハラ親父がいたり、明らかに不快なものとして描いてます。一人だけ部外者である香奈にはなおさら地獄でしょう。この頃から秀樹はそのクズっぷりが窺えて、まだ結婚前の香奈に手伝うように言ったり、自分は寝転がって何もしなかったり、あまつさえ母親の石田えりが香奈の文句を言うのも聞き流します。

続く結婚式、興味ない人の結婚式はこうも見ててツラいのかと思わせるような作り。ここでも秀樹は調子こいて騒ぎまくり、披露宴の主役だというのにあろうことか新婦側のスピーチの最中に退席する自社のお偉いさんを見送りに行ったりします。しかも香奈の借金を秀樹が肩代わりしたから結婚できたというキナ臭い噂まで聞こえてくるんですね。さらに同僚たちには心からの祝福は見られず、二次会では調子に乗って歌う秀樹のカラオケをもはや誰も聞いてないし、一人で寝てしまっても誰も構ってくれない、と人望のなさが露呈します。

マンションでのホームパーティーでは祝いに来てる後輩の高梨をベランダに閉じ込めるという子供みたいなことをするし、明らかに浮気相手である女性にピロートークで喋ったのだろうマンションの金額をバラされそうになったり。そしてイクメンブログの気持ち悪さに至っては言うまでもないでしょう。この秀樹の薄っぺらさと香奈のしんどさをひたすら描き出すのには悪意さえ感じます。秀樹は「アレ」にとり憑かれた高梨の的をついた罵倒にヘラヘラするしかなく(鏡や窓の隙間で切り取る空間の怖さが秀逸)、「アレ」がやってきてテンパってからのキョドりも酷くて、弱い人間であることもわかるんですね。妻夫木聡の軽薄演技が抜群です。


■罪を負わされた者たち

これが香奈視点になると見え方はさらに変わります。秀樹がブログに書くためだけに外食しようと言ってきたり、怪我をした知紗をただ眺めていたり、あまつさえ「一人産んだくらいで」というあり得ない台詞もあって、秀樹が死んで嬉しいと言うのも納得するしかない。原作はこの辺り、視点が変わることで見える真相というのが面白かったんだけど、本作はわりと最初から秀樹がクズだとわかるので、ミステリー的な面白さは減退してますね。その代わり、仕事でも保育園でも追い詰められていく香奈の苦しみをまた違った地獄として執拗に描いていきます。伊集院光のスーパーの店長が最初こそ大目に見てたけどやがて文句を言い出したり、あと保育園で孫に靴を投げたと言ってキレるジジイなんかは本当に酷い。

ただし香奈も単なる被害者とはなりません。人としてダメな母親がおり、幼い頃母親に「あんたなんか産んだから」と言われたことは香奈を苦しめ、自らも母親としての資格がないのではという呪縛に囚われます。また香奈は苦しみを癒すため言い寄ってきた津田と関係を持ってしまいます。つまり香奈もまた現実から逃げてしまう弱い者として描かれるのです。ついには開き直り、着飾って遊びに行く始末。野崎がくれた盛り塩を踏みつけての満面の笑顔には狂気が滲んでいて震えます。そしてついには命も落としてしまう。

この辺りの香奈の設定や描写は原作と異なる点ですが、改変されたのは香奈だけではありません。野崎は無精子症ではなくなり、妊娠した恋人が堕胎するという過去があることに変わっています。津田は秀樹の友人という設定になり、秀樹のものを奪うのが生き甲斐というさらに捻れた人物となっています。これらはつまり「アレ」に命を奪われる者全てに「罪を負わせる」ということなのでしょう。「アレ」が来るのは弱さと脆さのためなのだ、というふうに変えてしまう。これにより民俗学的な考証や「アレ」がやってきた本当の理由も曖昧になり、家族がギリギリのところで絆を保とうとすることさえ否定してしまう。原作では秀樹が最後まで家族を守ろうと必死だったというのは香奈自身が気付くことですが、これを野崎に言わせて香奈はそれを鼻で笑うんですね。家族の再生ではなく崩壊を描き、救済はないわけです。この「クズは死ね」という悪意の徹底はいっそ清々しいほどです。


■二人の霊能者

そんな地獄絵図に現われるのが比嘉真琴です。ピンク髪でタトゥーの天使!パンツ姿が眩しい!子供を産めない体というのを抜きにしても知紗に対して無償の愛情を示し、自分が守れなかったという罪の意識に苛まれる真琴は、この闇しかないような人物たちの中ではまさに救いの女神!見た目とは裏腹に無条件の優しさを持つ者として田原一家を救おうとします。今まで見たことのない表情を見せる小松菜奈には萌えまくり。しかし残念ながら「アレ」に対しては力及ばず、漂う絶望感。しかしその倒れた真琴の病室に満を持して現われる姉、最強の霊能者・比嘉琴子!溜めに溜めての不意の登場シーンにはアガりまくりだし、直接琴子が現れるのではなくまず真琴による精神的な救済を示すワンクッションを置き、それから琴子の悪霊退治に特化した姿を描くという段階を経るのがアガるんですよ。しかも琴子は真琴以上にキャラ立ちが強く、冷静な口調は崩さないし、ヘビースモーカーだし、むっちゃ食うし、野崎が買ってきた酒も当然のようにいただく。松たか子のクールさ、立ち居振る舞い、全てが最高。野崎なんて琴子に何か聞かれるたびに「え?」って聞き返しちゃうほど完全に主導権を握られてます。

そして映像にするからこそのヤダみとは逆に、映像にするからこそのスペクタクルが展開されていくのが凄い。使えるものは何でも使うという琴子の方針通り、日本各地からやってくる坊主に神主に巫女、科学班まで総動員の怨霊バスターズ。警察上層部を巻き込み、マンション付近を避難させ、大規模な舞台を作りと、とんでもないスケールの準備シーンにはテンションだだ上がり。なぜかJKがたむろしてると思ったら巫女さんたちだったというのがアガるし(「来るよ!」にシビれる)、「一人くらいは辿り着けるやろ」と言って新幹線を途中下車する手練れ感とかシブすぎるし、むっちゃ陽気な沖縄のシャーマンおばちゃんたちが途中でやられてしまうという厳しさまであって、そこまでしないといけないほど「アレ」が強力な存在ということで緊張感と高揚感まで高めてきます。そして逢坂セツ子ですよ。胡散臭いタレント霊能者かと思いきや、片腕を失ってなお「アレ」へと挑んでいく柴田理恵のカッコよさには心底やられます。

そんな怨霊バスターズ・オールスターが次々と倒れていくほど強大な力の「アレ」。それでも焦ることなく対処を続ける琴子。あわてふためく野崎をぶん殴って黙らせるのは痛快(パンチ指導は岡田准一らしいぞ)。琴子にとっては救うことより祓うことの方が重要であるように見えるんですが、その実、野崎の腹を刺すのは痛みを与えて正気を保たせるためだし、真琴の訴えに心動かされてないわけでもないんですね。それは刃物を向けられたとき血を吐くことが、野崎の懸命さや真琴の必死さにより心に隙が生まれ、そのために「アレ」の攻撃を受けていたということを示すからです。野崎が「あなたも弱いんじゃないか」と言うのは貶めているわけではなく、身内が絡んでてもプロに徹し、自分を傷付けずにいられない真琴を「バカな子」と言っていた琴子にも、人間的な揺らぎがあったということ。突き放したようでいて、琴子は部屋が崩れてきたとき咄嗟に真琴の頭を庇うし、去り際に「これ以上私に」で止める言葉の続きは「心配させないで」ということなんでしょう。


■悪意から解き放たれて

血だまりに大きく開いた口のような姿も見られますが、結局「アレ」の姿はハッキリとは出てきません。人によって見た目も変わるという設定ですが、それにしてもぼんやりしています。原作にあった「ぼぎわん」という名前はタイトルからも削られ、原作を読んで唸った名前の由来さえ明かされません。知紗がどこから現れたのか、真琴がどこにいたのかもよくわからないし(ブログの中って……)、琴子の対決の結果がどうなったかさえ見せず、大量の血が部屋から溢れ出て終わります。そうなると、結局「アレ」って何だったのか?一体何が「来た」のか?と思うわけです。思うに「ぼぎわん」はこの映画では形を持たない概念的なものとなっており、その抽象化によってそれまで散々積み重ねた「人の悪意」というものの総体とみなしているのでしょう。否応なしに人生に襲いかかる悪意、それによる苦悩、孤独。それが「来る」ということです。

津田は野崎のことを「誰も愛さず、誰も信じない、同類だ」と言い、琴子は「あなたは私と似ている、失うのが怖いから大事なものを作らない」と言います。しかし野崎は知紗のことを「寂しいから化物とだって遊ぶ」と庇い、夢のなかで手放してしまった我が子の代わりに知紗をしっかりと抱き、寂しい知紗に常に寄り添おうとした真琴と生き延びます。そして残ったのは、子供を失った野崎と、子供を産めない真琴、そして血の繋がらない知紗の三人。苦悩し孤独を味わった三人が、醜さとして見せられてきた血縁や人の悪意とは切り離されたところで寄り添う。そこに浮かび上がるものこそが「家族」の本質である、ということを描いているのかもしれません。あるいは、みんなオムライスの国で楽しくやれればいいのにね、という夢の物語でもあります。

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