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2018
11.22

救済のための終焉と、再生のための破壊。『GODZILLA 星を喰う者』感想。

godzilla_anime_3
2018年 日本 / 監督:静野孔文、瀬下寛之

あらすじ
いただきますx3。



要塞都市メカゴジラ・シティによりゴジラ・アースを撃退しようとしたハルオたちだったが、その結果地球人とビルサルドたちがぶつかり合うことに。一方エクシフ大司教のメトフィエスはゴジラの脅威を拭えない人々におのが宗教を広めていく。やがてその教え通りに金色の神が降臨し……。アニメ版『GODZILLA』三部作、その最終章。

『GODZILLA 怪獣惑星』『GODZILLA 決戦機動増殖都市』に続く、アニメで描くゴジラ第3弾にして三部作の最後の一本。2万年ぶりに人類が帰ってきた地球に君臨する巨大な怪獣ゴジラ・アース、そのゴジラから地球を取り戻そうとする人類の最後の戦いを描きます。前作までを観ていれば、台詞過多な会話劇であるのも怪獣バトルが少ないのも予想できると思うんですが、この最終章も案の定。ただその辺りは想定内なので特に文句はないと言うか、脚本が『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』『魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』の虚淵玄である時点でそこは織り込み済み。ただ今回は前作最後に囁かれた名前のアレが登場、発想としては面白いものの怪獣とは言いがたかった前作のメカゴジラに比べれば、見たかった画を見せてくれている、とは言えます。物語はゴジラに敗れたハルオたちを尻目についにその目的を明らかにする、微笑を称えた狂人(に見える)メトフィエスが動きます。何か企んでそうと思ったらやっぱりな!という感じですが、大局的な教義が持つスケール感と、それだけに恐ろしい展開が待ち受けます。

また地球の原住民フツアとハルオとの交流がさらに推し進められることにより、この世界の深淵へと突き進んでいくことにもなります。と同時に、地球外で待機する母船では、協力体制だった人間、エクシフ、ビルサルドの関係にも変化が。ハルオとメトフィエスのやり取りには、文明の行く先、宗教の台頭、滅びの美学と生き残る意思などが重ねられていき、これがスリリング。ゴジラとは何かという点についても踏み込んでいます。ほとんどは台詞で説明されるし、わりと破綻もないし、メトフィエスには疑問もあるけど行動原理はわからなくもないので、そんなに難しいところもないです。ただし今回はハルオに、俺は!俺は!という牽引力がないのが若干物足りないというのはあるかも(前作まではウザいなあと思ってたくせに)。

『劇場版シドニアの騎士』の(むしろ『名探偵コナン』シリーズの、と言うべきか)静野孔文、『BLAME!』の瀬下寛之の両監督はあまり怪獣映画に馴染みがないようで、そのせいか「そこをもう少しこうしてくれれば!」というズレがあるのは否めないし、ドラマをじっくり見せたいためか緊急度の高い展開のわりには少々もたつくところもあったりするんですが、神々しさと畏怖の混ざったビジュアルは良いし、怪獣というものの新たな解釈を3作かけて描き切り、かつちゃんと完結させたというのはエラい。怪獣映画と呼んでよいのかは迷うところですが、ディストピアなハードSFとして楽しめました。

↓以下、ネタバレ含む。








■自然と科学と神

前作であと一歩のところで非情になりきれず、結果ゴジラ・アースを倒せずに終わったハルオ。ビルサルドの二人はそのために討ち死に、ユウコはナノメタルに融合され植物状態で、さすがの猪突猛進男ハルオも意気消沈。メカゴジラ・シティ+ナノメタル融合したビルサルドでさえ倒せなかったとなると、もはやゴジラを倒す手段は絶たれたかのように思えます。絶望に打ちひしがれた人々が何にすがるかといえば、これだけ科学が発達しながらも宗教なんですね。しかしこれは全てメトフィエスのシナリオ通り。皆を同調させるためにゴジラを敵視させ、それを最も引っ張っていけるハルオをリーダーに選び、敗北を機にリーダーへの信頼を神の奇跡への信仰にすり替える。ハルオは否定されることなくお飾りの象徴となり、実際の運用はメトフィエスが行う。これ、宗教の仕組みの一面として実にあり得る話です。現実の宗教と異なるのは、本当に神が現れるということ。

つまりこのアニゴジ・シリーズは、1作目で神のごとき大自然の脅威を描き、2作目で自然を抑える科学の強大な力を描き、3作目で科学の成し得ない宗教的奇跡の結実を描いているわけです。人類の歴史としては宗教の方が科学より先に発展しますが、大自然も超科学も奇跡も大いなる力という点では共通しており、その括りから見た人間の小ささを映し出している、とも言えるでしょう。メトフィエスは発達しすぎて滅びた自分たちの種族のように、繁栄させては滅ぼし「刈り取る」ことが、その強大な存在と一体となることの幸福に繋がると信じています。滅びこそ救済。献身こそ救い。つまり人のもつ個々の力などは露ほども信じていないということで、個々の力を結集して強大な力を倒そうとするハルオの思いとは真逆なんですね。

一方でフツアのように、土着的な生活を送りながら自然そのものを神懸かったものとして崇めるという在り方も描いています。双子たちにとっては「勝つは生きること」であり「負けは死ぬこと」。子孫をもうけ生き残ることが種としての勝利であると述べます。メトフィエスが滅びの美学を尊び、母船にいた仲間の司祭がギドラが持つ死の美しさに恍惚となるのとはこれまた真逆であり、ハルオがフツアとの子をもうけるのは行き着く方向性が一致したからでしょう。しかしハルオとフツアの間にある大きな隔たりが、「恨み」という感情です。ゴジラへの恨みの強さがギドラの糧となるがためにメトフィエスに選ばれたハルオと、ゴジラには恨みはない、雷などと同じ天災だという双子とはそこが異なります。その恨みの感情を絶ちきるため、文明の結晶であるヴァルチャーに乗り、ナノマシン化したユウコと共に消え去ることを選ぶハルオ。「恨み」の感情を後世に残さないために、その呪いを解くためにゴジラに突撃するハルオは、恨みの対象であったゴジラに救われた、とも言えるのです。


■象徴としての怪獣

「黄金の終焉」と呼ばれるギドラ。中空から伸びる金色の曲線に見る神々しさと禍々しさは、絶対に敵わないという畏怖の念さえも呼び起こします。その正体は、別の宇宙からきた滅びをもたらす者。この世界の物理法則を凌駕し、時間と空間さえも歪ませる別次元の存在です。要するに全てを超越した決して抗えない神であり、それでいて滅びの象徴でもあるんですね。ギドラが宇宙船を襲う際に「ブリッジの生態反応が消えた」「私たちもう死んでる?」というのが、万物の法則が効かないことの表現として秀逸。ゴジラの物理攻撃もギドラには全く効きません。それでいてギドラ側の攻撃が効くのは、メトフィエスが持っている装置で導いているから。あの謎装置が何なのかはよくわかりませんが、メトフィエスの右手が血に染まっていることから自らの右目を抉って装置をそこに埋め込んだものと思われ、それほどの代償が必要というのは伝わるので、まあよし。あの装置からキングギドラの例の鳴き声が聞こえてくるのはニクいところです。また三ヶ所の次元の穴から三体のギドラが現れることで、三本の首を持つキングギドラのシルエットを表してもいます(辛うじてですが)。

一方のゴジラは、自然が生み出した巨大なる破壊神という位置付けになるかと思いますが、ギドラと違うのは地球産の神ということで、地球の物理法則に則った存在であり、文字通り地に足が付いているということですね。だからどこの次元の馬の骨だかわからん金ピカ野郎なんぞには負けないわけですよ(負けそうだったけど)。形勢逆転してからの、重力場ごとブッ飛ばすド迫力熱線のシーンが激熱。またその逆転に至ったのは、それまでゴジラを倒そうとしていたハルオがメトフィエスを打ち倒したからであり、ハルオとゴジラの敵対していた二者による共闘という見方もできますね。それにしても、ゴジラは文明が発展しすぎて行きつく先に現れた存在であり、逆説的に「人の科学は全て怪獣を生み出すためにあった」という見解が示されるのは面白いところ。要するに存在自体が行きすぎた文明への警鐘となっているわけです。人間が何かすると襲ってくるのは、再生のための破壊という意味合いもあるのかも。このように怪獣が概念でありながら、同時に絶対的な脅威としても存在するという扱いは、実体ありきの実写映画とは異なるアニメならではのアプローチであると言えるでしょう。

あともう一つ、ハルオがメトフィエスにのまれそうになったときに現れる、巨大な蝶のような影。なんとモスラだ!小美人のような双子が登場することからも何となくその存在を匂わせてはいましたが、ハルオを助ける形でついにその姿を……現した、と言っていいのか?まあ活躍があれだけならばシルエットのみにした方がミステリアスで良いというのはわかりますが……。モスラやギドラのデザインにしろ、怪獣バトルの欠如にしろ、過去の特撮のような「怪獣映画」のゴジラを求めるとちょいちょい外してくるので、そこを許容できるかどうかはやはり人によるでしょうね。


■怪獣+SFの親和性

わかったようでよくわからない、という点も色々とありますけどね。メトフィエスがギドラに生贄を捧げるときの、伸びてきた影が皆の影を喰らうと手や首が落ちるというの、ホラー表現として見れば面白いけど、一瞬どうなってるの?って思います。そこでかなりの人数が殺られたのかと思ったら、終盤フツアと交流するときはどこにそんなにいたのか?というくらいまだ人が残ってたり。左手も血にまみれていたことから、メトフィエスが最後に左目をも自分で奪ったのはわかりますが、その理由がちょっと汲み取れませんでした(あるいは何か見逃したかも)。あとマイナとミアナの双子、どっちかどっちか区別が付かないんですが……。

SF映画と怪獣ってわりと親和性があるんでしょうね。もちろん宇宙や異世界で暴れる巨大な生物と戦うというのは今までも多くの映画でやってきたわけですが、現在の延長上にありながら現実を超越するSFと、現実を超越した存在ながら世相や批判をも写してきた怪獣というのは、わりと表裏一体であると言うか、似たカテゴリにあるのではないかと、このアニゴジのシリーズを一貫して振り返ったときに思いました。「ギドラは見ている」という台詞に含まれる文明への警鐘であったり、捨て去った武器の上に咲く「ハル」のいう名の花であったりといったテーマも、SFらしくもあり怪獣映画らしくもあるところ。また、文明やら人類やらのマクロな視点だけでなく、個の人間を描きたいという狙いもあったのではないか、とも思います。人類を滅ぼそうとしたメトフィエスをハルオが最後に抱き締めるのが疑問だったんですが、個と個に戻ったときの純粋な友への想いと、その友とわかりあえなかった悲しみが溢れたのだとしたら、そこは納得できるかなあと思えるのです。

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