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2018
03.29

気持ち悪さと神々しさ。『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』感想。

The_Killing_of_a_Sacred_Deer
The Killing of a Sacred Deer / 2017年 イギリス、アイルランド / 監督:ヨルゴス・ランティモス

あらすじ
鹿は出ません。



豪邸に住み美しい妻と子供たちがいる心臓外科医スティーブン。しかし謎の少年マーティンを自宅に招き入れたことをきっかけに、子供が突然歩けなくなるという不可思議な事態が発生する。やがてスティーブンは究極の選択を迫られることに……。『ロブスター』のヨルゴス・ランティモス監督によるサスペンス・スリラー。

いやあ、スゴい変な話です。『ロブスター』もそうでしたが、どこか寓話的でありながら容赦ない物語。心臓外科医のスティーブンは成功者であり、美しい妻のアナ、娘のキム、息子のボブと共に平和に暮らす四人家族。しかし謎の少年マーティンを家に入れたことにより、エグい目に遭っていきます。と言っても暴力とか金銭トラブルとかではないし、マーティンは基本的には礼儀正しいんですが、でもどこかがおかしい。そうしてじわじわと滲み出る不穏さが続き、やがてごく普通に見えたスティーブンらが見せていくほころび。奇妙な設定、奇抜な展開、奇怪な映像で不条理な世界に引き込まれ、不安を助長する音楽も相まって、人間の根底にあるエゴやいやらしさが引き出されていきます。第70回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しただけあって実に独創的。

スティーブン役は『ロブスター』でも主演だったコリン・ファレル。またも中年全開の体型なうえに今作では顔の半分がヒゲで覆われて『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』とはエラい違う印象。妻のアナ役は『パーティで女の子に話しかけるには』のニコール・キッドマン。『LION ライオン 25年目のただいま』の母性溢れる母親とはまた違った役柄です。娘のキム役である『トゥモローランド』のアテナことラフィー・キャシディは思春期の少女っぷりが危うく、息子のボブ役サニー・スリッチの小生意気さも良い感じ。そして謎の少年マーティン役を演じる『ダンケルク』バリー・コーガン、不気味さと苛立ちを与える存在感がスゴいです。あとマーティンの母役が『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』のバットガールことアリシア・シルヴァーストーンというのは全く気付かなかった……。

これはある罪に対する罰の話と言えるんですが、なぜそうなるのか、誰がそうしているのかというのがよくわからないんですね。足掻いても救われない恐ろしさがあり、それがやがて諦めに変わり、静かな狂気に場が満たされていきます。ある種の「正義」を描きながらも何とも言えない歪みがあり、家族の崩壊を通して「命」を描く話でもある。シュールでブラック、徹底したヤダ味が面白いです。

↓以下、ネタバレ含む。








シンメトリーな構図、無機質な風景、俯瞰したカメラと、どこか外側から見ているような突き放し方が印象的で、なんと言うか血が通ってない感が強いです。ごく普通に見える幸せな家庭もどこかちぐはぐで、ニコール・キッドマンがフルヌードで裸体をベッドに投げ出し、それをじっくり見ながら、というコリン・ファレルも何とも奇妙。それでいて冒頭の不気味に蠢く心臓のどアップに見るような生々しさが時折差し挟まれたりします。カメラが寄ったときの表情などにスティーブンの微かな戸惑いとか、アナの疑念などが浮かび、そこに人間的な感情を見てとれます。

そんななかスティーブンと頻繁に接触し、やがて一家の自宅にも招かれるマーティン。最初はスティーブンの息子かと思いましたがどこか会話もぎこちなく、スティーブンには別に家族もいるので何者かと思うんですが、要はスティーブンが酒を飲んで手術した結果死なせた男性の子供なわけです。出会いのきっかけはわかりませんが(あるいは見落とした)、親の仇であるスティーブンと普通に会話する自然体な、なんなら慇懃無礼でさえある態度が逆に違和感で、むしろ超越した雰囲気があります。罰に関する説明もどこか他人事のよう。この罰がマーティンの力によるものなのか、あるいはもっと神懸かった何かによるものなのかは全くわかりません。なんだか条件を満たすと自動で発動するスタンド能力のよう。まず歩けなくなり、次に食べ物を受け付けなくなり、最後は目から血を流したのち死に至る。平たく言えば「呪い」ということになるんでしょうか。しかもこれを止めるには家族の誰かを一人殺さなければならないという無理難題。ボブが病院で歩けなくなるときの天から見下ろすようなショットがまるで神の視点のようなところからも、見えざる手の存在が意識されます。

マーティンは激昂することもなく、ただ逃げられないと伝え、それでいて娘のキムとツーリングしたり、とらえどころがないのに追い詰められるというのが不気味。バリー・コーガンの持つ何考えてるかわかんない感が際立っていて、血のように赤いナポリタンの食い方などはスプーンの持ち方やかきこみ方だけで何かヤバいと思わせます。スティーブンにシャツを脱いで脇毛を見せてと言うのは何でしょうね、脇毛が生えてるような立派な大人だからこそ罰を受けるべきというプレッシャーでしょうか。自分の母親とくっつけようとするのも、スティーブンのせいで夫を亡くした女性というのを意識させるためなのかも。口調はあくまで普通なのに言葉の端々に譲らなさがあり、監禁され殴られてもそれが変わらないところに確固たる意志があります。あるいはごく当たり前に正義はあるからどうしようもないのだ、ということを突きつけているのかもしれません。

スティーブンはそれでも抗おうとしますが、息子と秘密を打ち明け合おうと自らの性的な話までしたのに、ボブのほうは秘密は何もないと通じあえず。一方でアナだけはなぜか発症しないんですが、これは早々に諦めてマーティンを受け入れるからなんですかね。家族にとってはなぜ自分が、という思いはあるんですが、これが逃れられない運命なのだと悟ったとき見せるのは、それぞれが生き残るためのいやらしさです。二人でならまた子供をもうけられると言うアナ、「家族のために殺して」と犠牲の精神で気を引こうとするキム、将来は母と同じ眼科医になりたいと言っていたのに「あれはサービス、夢は心臓外科医だ」と父におもねるボブと、利己的な姿がえげつない。それでも誰かを選ばなければならないスティーブンが取ったのは、運を天に任せて銃の引き金を引くというもの。そこにはもはや許された主体性はなく、まるで神に祈りを捧げるための聖なる儀式のようであり、犠牲者は生け贄の鹿のように運に選ばれるのです。あるいは誰が選ばれたのかも意味があるのかもしれません。

人の命を奪った男を直接罰さず、逆に殺す理由を与え、家族という繋がりを根底からブチ壊す。一人死んだ後でも何もなかったかのようにダイナーにいるマーティンがさらに不気味。神の所業か悪魔の仕業か、法を越えた正義の執行なのか、恨みの念が実体化したのか、結局何もわからないまま不条理さをもって幕を閉じるわけですが、奪われたひとつの命に対してひとつの命が失われるという妙に等価的な帰結にもなっています。この突き放し方、俯瞰的なドライさ、全般に漂う気持ち悪さと微かな神々しさは、まるで愚かな行為への罰を描く古の神話のようでもあり、因果応報の法則を具現化したようでもあり、イソップ童話の戒めのようでもあるなあと思うのです。

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