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2018
02.22

傷付いた街の記憶。『デトロイト』感想。

detroit
Detroit / 2017年 アメリカ / 監督:キャスリン・ビグロー

あらすじ
銃はどこだ?



ミシガン州デトロイトで、不当な扱いを受ける黒人たちによる暴動が発生。その3日目の夜、アルジェ・モーテルの一室から響いた銃声により押し掛けた市警や陸軍は、モーテルの宿泊客たちに対し銃の在りかを聞き出すため脅迫めいた尋問を始める……。『ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』のキャスリン・ビグロー監督による、1967年に起こったデトロイト暴動を元にした実録ドラマ。

デトロイトで発生した暴動と、その最中に起こった白人警官による黒人たちへの、迫害とも言うべき不当な尋問が描かれます。実際の映像も織り混ぜながらドキュメンタリーのように見せる序盤で観る者も当時のデトロイトに取り込まれ、そのままの流れで始まるのは抑圧され押し潰されそうな閉塞感。逃げ場のない地獄で一部始終を目撃してるような臨場感を味わうことになります。メインの事件で舞台となるアルジェ・モーテルからはほぼリアルタイムで進むんですが、あまりの緊張感により体感時間が非常に長く感じられるほど。浮かび上がるのはレイシストによる差別、いわれのない罪に脅される理不尽さ。そして差別が生み出すのは嫌悪より先に恐怖なのだと気付かされます。

白人警官クラウス役の『レヴェナント 蘇えりし者』のウィル・ポールターは自身の行為を微塵も悪と思っていない姿がスゴい。同じく警官フリン役の『ハクソー・リッジ』ベン・オトゥールの今にも襲いかかりそうな危うさ、デメンズ役の『シング・ストリート 未来へのうた』ジャック・レイナーの引きずられてしまう雰囲気なども秀逸。彼らに酷い尋問をされるラリー役のアルジー・スミスは当時の音楽ムーブメントも体現しながら存在感を示すし、グリーン役の『シビル・ウォー キャプテン・アメリカ』アンソニー・マッキーは元軍人であっても対処が難しいというもどかしさを見せます。そしてディスミュークス役である『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』ジョン・ボイエガも素晴らしい。彼の立ち位置とそれゆえの衝撃が強烈です。

差別する・されるの胸糞悪さというのはもちろんあるわけですが、単にそれだけではなく、権力の傲慢さ、集団心理の怖さ、簡単に人が死ぬ危うさなどが描かれ、かつ人間関係のバランスという困難な現実や、夢を諦めることのやるせなさなども含んでいて、重さはあるものの実に多層的。簡単に訪れる非日常が当時のアメリカの病巣を抉り出します。そしてそれは今もなお払拭したとは言えないのでしょう。

↓以下、ネタバレ含む。








暴動の発端は違法酒場の摘発。黒人たちのたむろする場を押さえてしょっぴく、というところに黒人差別が表れているわけですが、そんな単純な話でもないのはそれを行うのが黒人の警官だということです。体制側と管理される側という側面もあるんですね。警察は横暴であり、それをサポートする軍隊は悪気はなくてもそれに荷担せざるを得ず、子供がブラインドを覗いたのを狙撃だと思っていきなり戦車の主砲を撃つという悲劇まで引き起こします。また捕まった黒人たちに揶揄するような言葉を投げる黒人もいれば、暴動の混乱に乗じて略奪を行う黒人もいます。不穏さは一気に広まり、着実に街は狂っていくのです。そんな雰囲気を当時の映像を巧みに入れ込むことでドキュメンタリーとしてのリアルさを表しながら、主要な人物も登場させて物語も紡いでいく手腕がさすがのキャスリン・ビグロー。

そんな街の緊迫感が既に場を満たしているのにアルジェ・モーテルにはまだ呑気さが漂っており、それがちょっと鬱屈を晴らそうというイタズラ心に繋がって、結果悲劇を呼ぶことになります。最初に銃の在りかを執拗に聞かれた際になぜオモチャの銃だと言わないのか、とも思うんですが、のんびり楽しんでいた流れでのイタズラが、まさか銃を突き付けられる現実の恐怖に結び付いているとは思いもしないのでしょう。ひたすら「知らない」「自分たちではない」と言い続けることしかできないのは、本当にわからないからです。予断があるので何を言っても聞き入れられない理不尽さにより、泣き続ける者、死んだように横たわるしかない者、甲高い悲鳴を上げ続ける者。アンソニー・マッキーなどは警官たちを簡単にブッ飛ばせそうですが、軍人としての戦闘力はあっても戦場ではない平時では法律を守る警官には逆らえないのでしょう。軍の上官が「人権に関する問題は関わらない」と撤退するのもあり、権利が権力を打ち負かせない厳しさを浮かび上がらせます。

ウィル・ポールターの演じるクラウスはあからさまな差別主義者ですが、最初に黒人の泥棒を撃ったときも悪びれはせず、かといって反抗的でもなく、当たり前のことをしたのになぜ問い詰められるのか理解しがたいとでも言うような自然さが怖い。殺人だと言われたから、正当防衛を主張するために死体の脇にナイフを置くのです。小賢しい仕掛けをしながら、自分が正義であることを微塵も疑わない。これは差別や迫害、あらゆるハラスメントを行う者の共通点でもあるでしょう。そして警官たちは最初に一人殺しているので銃を見つけるまで後には引けず、尋問はさらにエスカレートしていきます。自身の正義を揺るがせないクラウスに比べ、フリンはちょっとイキってるというか、権力の行使にハイになってる感があって余計デンジャラス。服を破かれたジュリーの信じられないという顔に恐怖が滲むのもわかります。軍のロバーツ准尉は警官たちに警戒しつつも芝居に乗るしかなく、デメンズは完全に毒気に当てられて他の者が殺したふりをしてるのを察することができず本当に殺してしまいます。

ディスミュークスが白人警官にコーヒーを振る舞ってトラブルを避けようとするのは、世渡りの上手さと言うよりは自分の身を守るためでしょう。「砂糖はないのか」と高飛車に言われても何とか受け流す冷静さもあります。彼は最も俯瞰的に見ている立場なので、観る者が自分を重ねるとしたら部外者である彼だと思うんですよ。それだけに第三者のはずだったディスミュークスが当事者にされるというのは余計怖い。取調室で座る彼の横に、手摺に繋いだ手錠がぶら下がるのが実にイヤな感じです。善意で手伝っていただけが犯人に仕立て上げられるという不条理。留置場の檻を掴む手が震えるという思いまでしたのに、裁判後にクラウスが自分を同類のように扱う言葉で吐くほどの嫌悪感を抱くことになります。ディスミュークスは誰もが他人事ではいられない、というのを表す人物なんですね。

ラリーは自分を励まし続けた友人を失い、夢の舞台にあと一歩のところまで行きながらドラマティクスを脱退、自ら夢を遠ざけることを選択します。そんな悲しさの一方で、警官たちが無罪を勝ち取るというやるせなさ。罪人は悪びれず、根底にある差別はスルーされ、ただ取り返しのつかなさだけが重くのしかかります。今も教会で歌い続けているというラリーは、どんな思いを託して歌っているのか。それを思うと、アメリカが抱える問題が今なお続いているのだと突き付けられるようです。デトロイトの街は深く傷付きました。そしてそれはアメリカが負い続ける傷でもあるのです。

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