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2017
12.05

さ迷える獣が見つめる虚空。『ノクターナル・アニマルズ』感想。

Nocturnal_Animals
Nocturnal Animals / 2016年 アメリカ / 監督:トム・フォード

あらすじ
最大の謎:なぜ便器がそこに……



アートディーラーのスーザンは仕事では成功を収めているものの、夫との関係はうまくいかない日々。そんなとき彼女宛に元夫のエドワードから自作の小説の原稿が送られてくる。それを読み進めるうちに、スーザンはそこに書かれた不穏な内容に己の過去を思い返していくが……。オースティン・ライトの小説『ミステリ原稿』を監督トム・フォードにより映画化したサスペンス・ドラマ。

世界的ファッションデザイナー、トム・フォードの『シングルマン』(未見)以来の監督2作目。主人公スーザンの元に送られてきたのは、元夫エドワードの書いた小説『夜の獣たち』。スーザンに捧げられたその小説はテキサスで犯罪に巻き込まれた男トニー・ヘイスティングが、保安官のボビーと共に犯人を探すというもの。明かりのない郊外の道端でチンピラに追われる恐怖や、胸が張り裂けそうな悲劇を綴る小説内容が劇中劇の形で展開し、その終わらない絶望感に精神を削られながら、同時にスーザンの過去の過ちと現在の孤独が交錯するドラマに意味が見出されていきます。凄まじいインパクトの冒頭シーンを始めとして、スーザンを囲む現代美術がメタファーとして機能し、愛することや創造性といった普遍的な哲学を経由しながら、スーザンの内面を露にしていきます。

スーザン役は『メッセージ』『ジャスティス・リーグ』のエイミー・アダムスで、少し疲れた現在のキャリア女性を演じつつ、その20年前の若き頃のスーザンも違和感なく演じててスゴい。元夫エドワード役は『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』『ライフ』のジェイク・ギレンホールで、繊細ながらこだわりのある感じ。スーザンの現夫ハットン役は『ローン・レンジャー』アーミー・ハマーです。また劇中劇の主人公トニー役はジェイク・ギレンホールが二役、保安官ボビー役を『マン・オブ・スティール』のマイケル・シャノンが紙一重の感じで、レイ役を『GODZILLA ゴジラ』のアーロン・テイラー=ジョンソンがダーティな感じで共に怪演。いやあ役者陣はみんなイイ。

渇いたテキサスの風景、仄明るい映像で綴る過去の二人、刺激はあるが無機質で空虚な今、という撮りわけも印象深いです。トム・フォードの本職から想起するような着飾った上辺というような作品ではなく、むしろ人間の奥底にあるものの表現が凄い。映像が美しいだけにスタイリッシュさを感じますが、その実は心を抉るサスペンス。20年経って書かれた小説に込められたものは愛か憎か、その思いに震えます。いや、でもこれは色んな解釈ができそうですね。

↓以下、ネタバレ含む。








劇中劇の序盤、明かりのない道路でいかにも危ない奴らの車に煽られてから始まる恐怖は凄まじいです。ついには停止させられ、車から出され、通りすがったパトカーにもスルーされてしまう。タイヤ交換をするというのがひょっとしたら悪者ではないのかという一縷の望みに繋がるのがいやらしく、とうとう妻子を連れ去られたうえに運転させられ置き去りにされる。あまりの長い緊張感に吐きそうになり、失われるという絶望感に気が狂いそうになります。これはあくまで小説内の物語だと思わないとキツい。『悪党に粛清を』を思い出しました。この絶望に満ちた喪失は、エドワードがスーザンとの子供を失うということを表しているのだろうし、後に犯人の一人ルーがビリーに殺されたあと「止めればよかった」と泣き叫ぶのは、堕胎したスーザンへの言葉でもあるでしょう。

夜は暗黒、昼は渇いた荒野に照りつける日差し、というテキサスの風景は、エドワードの荒涼とした心象風景そのものに思われます。ギレンホールが演じるトニーはもちろんエドワードの代替。肺癌で「失うものはない」と言う保安官ビリーの、「正義のために法の手続きを無視する覚悟があるか」という行きすぎた正義感もエドワードの一面を表しているでしょう。一方で娘を殺した犯人のレイはスーザンを表していると考えられます。「侮辱されたらその通りにしてやる」と言うのも現実に背こうとして結局受け入れたスーザンに近い。ただ、ひょっとしたらトニーの妻にスーザンを重ねて、彼女は既に死んだのだとしてるのかもしれないし、そうなるとレイもまたエドワードの一部と見れるかもしれません。それでいて「あんたは善人だ」とビリーに言わせることでトニーを常識の範囲にとどめているんですね。それだけスーザンと別れたあとの20年には不安定な状態があったということかもしれません。ただしトニーがエドワードの姿をしているのはあくまでスーザンの意識のなかだけです。つまり最初からスーザンはこれがエドワードからのメッセージのつもりで読んでいるのでしょう。

そのためスーザンはエドワードとの過去を次々と思い出していき、旦那とのすれ違いの日々、さらに出張と称して女連れであることを知ったことでスーザンの孤独感は増し、現在と過去と小説の境目が少しだけ曖昧になっていきます。シーンの切り替えも、劇中の娘の死体から同じ寝姿のスーザンの娘(これは現夫との子か)に変わったり、若き日のスーザンやエドワードから現在のスーザンに重なったりします。また時々挟まれる芸術作品もスーザンの心情を表しているようで、冒頭の巨大な裸の女が踊るシーンでは表面的な装飾に酔いしれた空虚さを感じるし、スマホの子供の映像に突如男が割り込む後ろには「REVENGE」という言葉をデザインした作品が飾られて、復讐の可能性を示唆します。他にもライフルを向けられて顔がこちらを向いてる男の絵に不穏さを、矢の刺さった牛のオブジェには心の痛みなども重なっているのかも。でもそれほど小説が現実を侵食するわけではなく、人物配置も現実とは異なるため、スーザンが物語内に入り込むことは許されていない、たた読んで享受するしかない、という壁も感じます。

スーザンの兄がゲイだと気付かなかったことに「悪かった」と言うように、エドワードは真っ直ぐな男だったのでしょう。対してスーザンはいつの間にか現実的な選別をするようになっていきます。それは母に予見され、エドワードにも指摘されたように、否定していた母親と同じになること。「私には創造力がない」と言う自己否定に「封印したからだ」とエドワードに返され、「誰かを愛したなら途中で投げ出してはいけない」というエドワードを「続けられない」と捨てることになります。信じることができなかったスーザンは、小説のなかで苦悶しながらも正義を信じようとしたエドワードと対極にいます。

そうしてラスト、エドワードとの再会にときめくように胸元の開いたドレスを着ながら、そんな心に言い訳するようにルージュは拭き取るスーザン。しかしエドワードは現れません。それは過去を思い出させながら切り捨てるというエドワードの復讐だったのか、はたまた小説と同じくそのときにはエドワードは死んでいるということなのか。そこは観る人によって解釈がわかれるところでしょうが、ラストカットで見せるスーザンの表情には己の孤独を自覚したような虚無感が漂います。あるいは孤独であるということを認識させることで逆に孤独から解放することがエドワードの狙いだったのか。しかし現代パートでエドワードが姿を見せることは一度もなく、どちらにしろスーザンが途中で投げ出した愛に再び巡り会うことはないのです。

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