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2017
11.28

さらけ出す青の時代。『エンドレス・ポエトリー』感想。

Poesia_Sin_Fin
Poesia Sin Fin / 2016年 フランス、チリ、日本 / 監督:アレハンドロ・ホドロフスキー

あらすじ
大人になったぞー!



故郷トコピージャから首都サンティアゴへと移住したホドロフスキー家。様々な悩みや葛藤を抱えたアレハンドロ青年は詩人になりたいと願い家を出て、多くの人との出会いにより現実から解放されていく。アレハンドロ・ホドロフスキー監督の自叙伝的作品の続編。

『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』などのアレハンドロ・ホドロフスキー監督が自身の幼少期を描いた自伝的作品『リアリティのダンス』。その続編であり、20代前半の青年期が描かれる本作、続編ではありますが人生の一編を切り取った物語なので単独でも観れます。違う街で再出発したものの相変わらず高圧的な父に反発するように、詩人になりたいという夢を持つアレハンドロ少年。やがて成長し家を飛び出したアレハンドロは、自分が何者なのか問いながら多くの人々と出会い、ときにフルチンで文字通り全てをさらけ出します(R18+の破壊力)。コミカルだったりシリアスだったり目を疑ったりのめくるめく展開、そして鮮やかなイメージにより、監督の言う「マジック・リアリズム」へと飲み込まれていきます。

前作同様ホドロフスキー監督の長男ブロンティス・ホドロフスキーが父親役を、また主人公であるホドロフスキー青年役を監督の末の息子であるアダン・ホドロフスキーが演じます。ホドロフスキーだらけです。本作はクラウド・ファウンディングで資金の一部を集めたということで、大御所であっても映画作りには金がかかるということですが、それでも彼のアーティスティックな作品を求める声があるということでもありますね。ちなみに撮影は、ウォン・カーウァイ作品などのクリストファー・ドイルです。

エンリケ・リンやニカノール・パラといった後に世界的な詩人となる人々や、運命的な恋に落ちるステラとの出会いのなかで、若者特有の情熱、過ち、苦悩、性といったものをメタファーを交えながら様々なエピソードで綴り、生と死、束縛と解放、自問と情熱を描きます。細かいところに言及したらキリがないほどの密で豊潤な映像、そしてホドロフスキー自身が若き日の自分へ告げる「生きろ」は、観ている者へも深く響きます。とても良かった。

↓以下、ネタバレ含む。








前作からの続きということで、高圧的な父親と歌う母親、少年アレハンドロが引き続き登場。父親は都会に出ても何も変わらず、息子に自分の理想を押し付けてきます。万引きした女を人前で裸に剥いたり、何度も「オカマか!」と言ったりとあらゆる差別意識が見られ、それは自身の劣等感の裏返しでもあるのでしょうが、それはさておき。息子は詩人になるためいとこの紹介で芸術家の集う屋敷へと転がり込みます。新たな環境、そこで出会う強烈な人々、そして「裸のミューズが道を照らす、燃え盛る蝶に導かれて」という予言めいた言葉の通りに情熱的な道へと踏み出していきます。

思ったよりエピソードそのものが綴られていきますが、イメージによるメタファーも随所にあったり、絵で当時の町並みや電車を表したり便利な黒子が控えていたりと演劇的な演出があったりもします。突然青年へ成長するのは驚きますが、医者になれと言う父に抗い、興味のないヴァイオリンを捨て去り、自分を子供扱いする親戚の家でブチ切れ、いとこの誘惑には流されない、そういった自分の意思を貫いたことで大人になったということでしょう。しかしそうして手に入れたと思った「自分」というものにアレハンドロは疑問を持ち続け、もっと生を輝かせたい、詩人として高みを目指したいと渇望します。それだけに死人のようなバーの客のなかで一際異彩を放つステラの「生」に惹かれたのかもしれません。

ステラはビール2リットルを一気に飲み干す豪傑だし、真っ赤な髪(下の毛まで赤)に凄まじいメイク、ドクロのタトゥーまで入れていて悪魔っぽいですが、実際悪魔のようにアレハンドロを精神的に支配する存在となります。ずっとチン○握りながら歩くというのがもう掌握されまくってるし(それでいて挿入なしという生殺し)、手の甲にイニシャルを彫るという若気の至りにも当てられ、恋は盲目状態のアレハンドロ。しかし飛び込みのバーでカマ掘られそうになったアレハンドロが彼女を殴ったらちょっと泣いたり、別れた後の再会で「山から神が降りてくるのを待っている」と言っていたその神が現れた(要するに男ができた)と言ったり、運命的と思っていても結局は普通の女性であったということをアレハンドロは思い知ります。彼女と別れるシーンでいとこの首吊り死体があるというのも、生の象徴に思われた彼女もまた死と無関係ではなかったと言っているかのよう。何よりステラを演じるのが母役と同じパメラ・フローレス(あまりに印象違うので観てるときは気付きませんでしたが)なので、まだ母の影響下から抜け切れていなかった、とも見れます。

アレハンドロは他にも多くの人々と出会います。芸術家の館で仲間となる合体ダンサー、超絶ソプラノ、超絶画家(画家?)などの仲間とは志を持つ者同士としてその後も一緒に行動するし、人形に似た若い女と老紳士カップルの、口は動いてないのに言葉は聞こえるというところに喋る必要もなく心が通じている愛の形を見たりします。老紳士からもらったアトリエでのパーティーでは両手のない男が自分の彼女を愛撫してくれと頼んだりもする、これも愛情表現のひとつ。そこで出会った詩人のエンリケ・リンとコンビ結成、お偉方に卵と肉をぶつけたり、意識高い真っ直ぐ行進をしたりが笑えます。家の中を通してくれるおばさんが超親切。笑えるシーンは色々あるんですが、コミカルを狙ってるのか真面目なのかはちょっと判断に困ります。巨大な父親の顔がテーブルに乗ってるのもクスッとなるし、婆さんがホールケーキに顔を突っ込むとかコントのようだし、タロット自動読み取り人(フルチン)は笑うところではない気がしますがどうなんでしょう(フルチンだし)。

ただ全裸というのは全てをさらけ出しているとも言え、父が昔やってたというピエロの格好で本心を吐露し、フルチンでダイブする姿には(絵面の凄まじさもあって)一種の解放感はあります。自分を縛りつけていた家が燃えて喜んだり、母親のコルセットを風船付けて飛ばしたりというのも解放を示すものではあるでしょう。でもそれが真の解放かと言えば断言できないのです。思うがままに生きてエンリケの彼女とヤったりすれば「橋が壊れた」と泣くような喪失感を味わうし、天使の羽を付けてのパレードで完全なる輝きを見出だしたように思えても、赤と白の奔流には情熱だけでなく死の影さえ付きまといます(このシーンがエンドロールで無数の協力者の名前でコラージュされるのは壮観)。そうして「生まれながらに死んでいる」「自分が何者かわからない」と嘆く若者に、現在のアレハンドロは「生きろ、生きろ」と告げます。生きるとは何かを得て、何かを失い、それでも前に進むことだと言わんばかりに。

ラストの父親の姿には、父もまた良くも悪くもそうして生きてきたのだ、ということを感じて涙します。実際ホドロフスキーはこれ以降父親に会えなかったそうで、自分ができなかったハグをホドロフスキー本人がアレハンドロにさせる、というのが、後悔を作品内で埋め合わせているようでせつないです(突然の断髪に涙引っ込みますけど。あれも父親が自分をさらけ出したということですかね)。最後は出会った全ての人に見送られ、パリへと船出するアレハンドロ。船には少年の頃家族で旅立ったときのように死神が乗っていますが、しかしその死神には今度は天使の羽も生えているというところに、人生の未知を教えられるようです。

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