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2017
11.08

魂を抱いて眠れ。『ブレードランナー2049』感想。

bladerunner2049
Blade Runner 2049 / 2017年 アメリカ / 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ

あらすじ
今日のメニューはガーリック。



2049年のロサンゼルス、ブレードランナーの「K」が旧型であるネクサス8型レプリカントを処分した際に発見したとあるものに、ロス警察内は騒然とする。同じ頃、新型レプリカントを開発するウォレス社でもこの事態に対応を始める。Kは鍵を握る人物である元ブレードランナー、リック・デッカードを捜すことになるが……。前作『ブレードランナー』から30年後の世界を舞台にしたSF映画の続編。

フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を1982年に監督リドリー・スコットで映画化した『ブレードランナー』。かつてなかった画期的な近未来を映像化し、その後のあらゆるSF作品に影響を与えた作品です。薄暗く雑多な街並み、多言語の入り乱れる雑踏、巨大な広告のゲイシャ、空飛ぶ車、そして人間とアンドロイド。秩序より混沌を具現化したようなビジュアルに圧倒され、ヴァンゲリスの幻惑的な音楽が聴くだけで世界観を強烈に印象付け、哲学的思索を促す奥深さに飲み込まれる。そんなもはや伝説的作品と言える『ブレードランナー』ですが、全5種類のバージョン違いは存在するものの、その独自性が強すぎて今まで続編は作られていませんでした。それが35年の時を経て、その先が描かれます。

度重なるレプリカントの反逆にタイレル社は倒産したものの、大停電と呼ばれる事件により過去の記録の大半は失われ、その後新たに従順で安全なレプリカントを市場に提供するウォレス社によって世界は回っており、人類は外宇宙へも進出している、というのが背景です。物語はブレードランナーである主人公のKが、事件のなかで知った世界を揺るがす事態を解決するために奔走する、というもの。今回の続編はリドリー・スコットは製作総指揮に回り、『プリズナーズ』『ボーダーライン』や今年は『メッセージ』が公開して間もないドゥニ・ヴィルヌーヴが新たに監督しています。そしてこれがどうかと言えば、35年の時を経ながらこれは確かに『ブレードランナー』の続編と言えるでしょう。同じではない、でも地続きという感覚が実に強い。なおかつしっかりとヴィルヌーヴ作品でもあります。物語内でも30年の月日が経過しており、それだけの時間が経過しているというのが自然に感じられる細部の作り込みも凄まじいです。

ブレードランナー「K」を演じるのは『オンリー・ゴッド』『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴズリング。この世界の新たな主人公として抜群にハマってます。そして前作の主人公デッカードを演じたハリソン・フォードが再び出演、これがゴズリンに劣らず予想以上に良かったです。Kの電脳の恋人ジョイを演じるのは『スクランブル』のアナ・デ・アルマス、可愛さ爆発です。ラヴ役の『鑑定士と顔のない依頼人』シルビア・ホークスは穏やかさの裏にある力強さが魅力的。ほか、マダムこと上司のジョシ役(シャレではない)に『ワンダーウーマン』の女将軍ロビン・ライト、サッパー・モートン役に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのデイヴ・バウティスタ、ニアンダー・ウォレス役に『スーサイド・スクワッド』のジャレッド・レトという布陣です。

上映時間163分はさすがに長さは感じるし、最初観たときは前半がちょっと退屈な気もしましたが、そんな長丁場も意味があるからこそ丁寧に描いているんですね。ある隠された真実が人間とレプリカントの世界に劇的な波をもたらす、という本筋と同時に、一個の存在としてのKのとてもパーソナルな物語でもあります。前作に劣らぬ画期的なシーンもあるし、演出も脚本もスゴかった。ハンス・ジマー、ベンジャミン・ウォルフィッシュの音楽とも相まって世界観に浸れる、まさに正当な続編。どこか静かで、それでいて激しいです。

↓以下、ネタバレ含む。








■地続きの世界

映像は前作を受け継ぎながらも独自性を持っています。青みがかった灰色の画面、広大な人工農場の風景、大停電の影響か明かりの乏しい夜の街。美しくもどこか乾いた、現実から続いているような異世界感は、ヴィルヌーヴ作品のなかでは『複製された男』を思い出します。猥雑だった町並は心なしか小綺麗になり、屋台は自販機化され、巨大ビジョンはホログラムとなって街中を動き回ります。

続編という制約があるがゆえに驚くほど画期的とは言えないかもしれませんが、そこには目新しさも十分あるんじゃないでしょうか。廃工場のシンメトリーな階段とか、火の粉が空に舞い星のようになるといったシーンも印象的。途切れ途切れのエルビスショーには断絶された過去のきらめきが見られるし、ウォレス社の通路脇に立ち並ぶレプリカント像、水の揺らめきが映る金色の部屋などは独特の美意識。ウォレス社には窓のある部屋が見当たりませんが、これはウォレスが盲目であることに関係してるのかも。また海でのラストバトルは、海というのが一見世界観にそぐわないながら、真っ暗ななかで波が襲いかかるという不穏な感じが良いです。まあKとラヴが首絞め合ってるところよりも後ろで溺れそうになってるデッカードの方がヒヤヒヤしますが。

散りばめられた前作オマージュも面白いです。冒頭からして目のアップで始まりますね。でも映る風景は異なるというところに「おっ」と興味を引かれます。カタカナ看板があったりSONYのロゴが「ソニー」だったりDNA閲覧機が日本語で喋ったりと、日本語推しも健在。でもデッカードの潜むビルはハングル文字の表記があったりするのが時代を感じます。ジョイの着る透明コートは前作の女性レプリカントを彷彿とさせるし、汚染地区をドローンのカメラで映すときの細かい座標の指定も前作の写真解析を思い出します。より直接的なものではデッカードとレイチェルのやり取りが流れたり、まさかのレイチェル登場などにはアガります。あと折り紙の男ガフの再登場は粋ですね。

また今作の公開に先駆けて、前作から今作の間に起こった出来事を描いた短編動画が3本公開されています。1本目の『ブレードランナー ブラックアウト2022』は『カウボーイビバップ』『スペース☆ダンディ』の渡辺信一郎監督によるアニメ作品。本編でも度々出てくる「大停電」について語られます。大停電があったから、ソフトウェア的な進化より有機物のレプリカントの進化が進んだのかな、と考えたり。2本目の『2036 ネクサス・ドーン』はリドリー・スコットの息子、ルーク・スコット監督によって、レプリカント禁止法の撤廃の経緯が描かれます。ウォレスのヤバさが伝わります。3本目の『2048 ノーウェア・トゥ・ラン』は同じくルーク・スコット監督でサッパー・モートンの前日譚。本編では控えめだったバウティスタの大暴れが見れると同時に、なぜKがサッパーのところに来たかに通じています。いずれも観なくても問題ないですが、観れば少し世界が拡がります。


■本物と偽物

前作はレプリカントの寿命という「命」について描き、そこから人間とレプリカントは何が違うのかを問う物語でした。今作ではさらに踏み込んで「魂」を求める物語だと言えます。レプリカントは寿命4年という制約が撤廃されてますます人間に近い存在になります。それだけでなく、サッパー宅の地下から見つかった骨が出産後のレプリカントのものであるとわかり、子孫を残せる可能性が浮上します。秩序の崩壊を恐れ、これを全て消すことを要求するマダム、さらに進化したレプリカントのためにこれを見つけ出そうとするウォレス。それほどの一大センセーション。そしてレプリカントであるKは「生まれた者には魂がある」と思っています。

レプリカントは人間を越えるパワーは持っていても、血は出るし傷も生々しくて機械とは違うし、製造番号を見つけるまで骨さえも人間と見分けがつきません。感情もあるし、性欲もあるし、窒息もする。DNAまで持っている。つまり生体組織は人間と変わらない。そうなると人間とレプリカントの違いとは、もはや「生まれた」か「作られた」かというだけと言ってもいいわけですが、しかしそれが「本物」か「偽物」かという越えられない壁としてあるのです。生まれた者は人間に作られた者ではないから、人間にしかなかった魂が宿っているという思想。魂は全レプリカントの憧れでもあるのでしょう。

Kはジョシに「あなたは(魂が)なくても大丈夫」と言われ、失望したかのように無言で去ります。そして記憶通りに釜のなかにあった木馬を見つけ、自分こそが生まれた者ではないのか?と思い込みます。しかしステリン博士に否定され、荒れるK。このときステリン博士の顔が微妙に歪むのは、Kの記憶が自身のものと同じだったからでしょうか。ともかく、レジスタンスの女性が言うように、皆が自分こそが生まれた者だと思いたいという、寿命とはまた違った命への欲求がそこにはあります。だからこそ生まれた子は、偽物が本物になれるというレプリカントたちの希望の象徴であり、サッパー・モートンが「奇跡を見たことがないからだ」と言うのも、人間とレプリカント、本物と偽物の間に引かれた境界を打ち破る出来事だったからです。


■TCAGか、0と1か

本作には性的なニュアンスが多く見られます。レプリカントであるKが仮想恋人を持つということ。ホログラムである恋人ジョイがセクサロイドであるマリエッティの体を借りて実体を持つということ。マダムが「私が酔ったらどうする」とKを誘うような素振りを見せること。そんな性交を示唆するシーンは、それが子作りの行為であることの連想であるかのよう。レプリカントの誕生が袋から生まれ落ちるというのも、まるで産道を通って出産に至る赤子のようです。

ジョイがマリエッティと同期を取るのは、電脳彼女でしかなかったジョイが実体を得るという官能的なシーン。実際の食事と出された料理の映像を重ねたり、突き抜けないよう手をギリギリで合わせたりするシーンが事前にあるだけに、この同期には思わず感動。完璧に合わさるわけではなく、手が二本になったり顔が入れ替わったりと少しズレが生じるのがむしろ背徳的です。キスをするのがジョイの方が先走ってるというのもエモーショナル。マリエッティが道具にされた感もあってそこは複雑なものもありますが、偽物であるジョイがこのときだけは本物に思えるという意味があるわけで、そのために『her 世界でひとつの彼女』で描くようなAIとは逆に、肉体性こそが強調されています。ただしマリエッティがジョイを「中身がない」というように、それもまた代替でしかありません。

それでもジョイが消え去る瞬間に「愛してる」と言うのは泣けてしまうんですが、それはここまでの経緯による親近感ではあるんですよ。レプリカントと違い(おそらく)全てがプログラムであるジョイは「あなたは特別」というのも皆に言ってることなのでしょう。Kもそれはわかっているのかもしれないけど、それでも依存してしまう。二次元などの虚構にリアルを求めてしまうという点ではこれは現代でも通じるものがあります。しかしジョイを失った悲しみに暮れるKは、ジョイの巨大な広告が「グッド・ジョー」と呼ぶのを聞いて「ジョー」が自分だけの愛称ではなかったことを受け入れます。ウォレス社も罪作りですねー、ツラいなー。ちなみにジョイを出していないときに時々起動音が鳴るのは、Kを呼び出してるってことなんでしょうね。たまごっちみたいだな。


■抗う人々

ラヴに関してはウォレスの手足となってクライアントへのヒアリングから荒事まであらゆる業務をこなす働く女性、という感じですが、彼女もまたKと同じく使役される存在です。名前を付けられるのは可愛がられてるから、とKに言われますが、目の前で生まれたばかりのレプリカントを殺すような男に、やはり依存しているのでしょう。「最上の天使」とウォレスに言われて期待に応えようとする、そこには承認欲求さえ見られます。それでいて、ジョシを殺すときなどは涙を流すことからも、自分の意識とは異なるところで組み込まれた命令遂行の義務を負っているのでしょう。Kのように人間もどき(スキンジョブ)と揶揄されることはなくても、根っこのところは変わらないのかもしれません。それにしても超強い。演じるシルビア・ホークスの表現力にはその迫力もあって圧倒されます。

デッカードは、ハリソンがすっかりおじいちゃんなので色々と大丈夫かなと心配になるんですが、Kを殴りまくって「続けるか一杯飲むか」とか、Kとのバーでの「自ら去るのが役割だった」という会話とか、ワンコが本物か聞かれて「彼に聞け」とか、ハードボイルドでイイ。レイチェル登場時の揺らぎそうな表情などは重ねた月日を思わせてくれるし、パンチでの応戦がやけにインディ・ジョーンズっぽかったりして、ハリソン・フォードは実に良かったです。レイチェルはキャストがショーン・ヤングとなってたんですが、過去映像を素材として使ったということですかね?東方仗助ヘアーが眩しいです。

ウォレスは自然の摂理を乗り越えようとしてか好き勝手やっているという感じですが、特に断罪されるということもなくそのまま終わります。もはや神に等しい存在ということでアンタッチャブルなんですかね。と言うより最終的にKのパーソナルな話に着地するので、そもそもKに会ってもいないウォレスは物語にはもう不要になってしまったということかも。ジャレッド・レトの超然とした雰囲気は底知れない闇を感じて良いです(当初はデヴィッド・ボウイが演じる話もあったとか)。一つ気になったのは、ウォレスがデッカードに「あなたが作られた者なら」みたいなことを言うのが、デッカードも実はレプリカントである、という前作の解釈の一つを裏付けるかのようなんですが、明言されてるわけではないですね(リドリー・スコットはそれらしいことを言ってるようですが……)。


■魂は必要か

生まれた者が「彼」ではなく「彼女」であると知ったときにKの脳裏に浮かぶ一人の顔。Kの記憶を見て狼狽した彼女こそがその人だったわけです。デッカード殺害を依頼されながら結果的にデッカードを救ったKの行動は「大義のための死は何より人間らしい」という言葉の「大義」にはそぐわないのかもしれません。しかし大義のために娘と離れたデッカードを我が子と再会させることは、偽物の情愛しか得られなかったKにとって本物の情愛を現出させること。それは「魂」という形のないものにすがるよりも、Kにとっては大義であったとも言えるでしょう。「俺は君にとって何だ」というデッカードの言葉に微笑むだけのK。ひょっとしたら父親だったかもしれない男、という言葉を飲み込み、その生を終えるKが、せつなくも美しいです。

代替ではない、本当に触れ合えることのかけがえのなさ。Kが求め憧れたのはそんなものだったのかもしれません。だからラストショット、デッカードが父であることを示す木馬を見せるのではなく、まずガラスに手を当てて娘に触れようとするような姿に、Kの思いを重ねて見てしまうのです。

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