2017
09.24

律しながらも人を成す概念というもの。『散歩する侵略者』感想。

sanpo_suru_sinryakusya
2017年 日本 / 監督:黒沢清

あらすじ
やんなっちゃうなあ、もう!(←激萌え)



数日の行方不明ののち記憶を失って帰ってきた夫の真治。別人のようになった夫に妻の鳴海は戸惑うが、それに追い打ちをかけるように真治は「自分は宇宙人だ」と言い出す。同じ頃に町では一家惨殺事件を始め不可解な現象が続発しており、そんななか取材中だったジャーナリストの桜井は宇宙人を名乗る少年に出会って同行することに……。『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』の黒沢清監督によるSFサスペンス。

原作は『太陽』も映画化された劇団イキウメの舞台。宇宙人が身近な人に入れ替わり地球を侵略するという話です。それだけ聞くとよくある侵略SFスリラーかなと思いますがそこは黒沢清、地球人に成り済ます宇宙人が人間のことをよく知らないがための言動が妙にズレている不自然さ、あっけなく日常を侵食する非日常の薄気味悪さに翻弄されます。それでいて不穏さがまるで冗談のように拡がっていくのがどこかコミカル。そんなコメディっぽさが効いているため侵略による怖さというのは希薄で、でもひたすら手遅れだというのが怖くもある、という不思議な感触です。宇宙人は人間の持つ概念を奪うんですが、そのためにもたらされる人の変化が面白い。

妻・鳴海役の長澤まさみが見せる倦怠期の妻っぷり、夫・真治役の松田龍平の無感情な人外演技、共に良いです。特に長澤まさみの微妙な心情の変化はとてもイイ。そしておっぱいが(略)。鳴海の妹役である前田敦子のクタッとする動きも素晴らしいです。と言うか、長澤まさみと前田敦子が姉妹って個人的にはヒョー!って感じでたまらんのですけど!そしてジャーナリストの桜井を演じる長谷川博己の足掻き方が『シン・ゴジラ』とはまた違った趣きがあり、『渇き。』高杉真宙の演じる天野との奇妙な関係性も面白いです。ほか、意外な目覚め方をする丸尾役の『三度目の殺人』満島真之介、自分を失った刑事役のアンジャッシュ児嶋一哉、役所の人っぽいけど胡散臭い笹野高史、発注元の権力を振りかざす社長の光石研、真っ当な役なのにどことなくヤバい東出昌大など、脇の人物も個性的です。

未知の存在による侵略に対応しきれない人類というサスペンスであり、壊れかけた夫婦が繋がりを取り戻せるかというラブストーリーでもあります。そして概念が違えばコミュニケーションも取れないという、意外そうで当たり前の真実。散歩するような気軽さで人の概念を奪っていく侵略者に、怖さと可笑しさを同時に感じるのが面白いです。それにしても宇宙人の対策をするのはやはり厚労省なんですね。それも込みでアニメの『正解するカド』にちょっと通じるものを感じます。

↓以下、ネタバレ含む。








トレーラーのド派手な横転をバックに本当に散歩してるかのような少女の横に出るタイトル、ここからもう日常らしからぬ事態の大きさがよく表れていてイイんですよ。なんてことのない住宅街の一軒家で入り口から引きずり込まれる主婦、桜井と車の周囲で話す天野が不意に目の前に現れるかのような映し方などはスリリング。この日常と地続きの非日常というのが実に黒沢清的で、急に風が吹いて風車が回ったり、画面が急速に暗くなったりというのは過去作にもよく見られる演出です。画面が暗くなるのは社長から仕事の概念を奪うとき、恒松祐里の演じる女子高生あきらが死んでいくときなど何かが失われるシーンですが、真治が鳴海から「愛」の概念を奪うときは暗くなりかけて結局戻ったりしますね。また不意に非日常が襲ってくるというのが今作ではよりダイナミックというか、突然アクション映画のような銃撃シーンや爆発シーンが展開されるというところにも見られます。あと光石研が「仕事以外でも何でも相談してよ」といかにもセクハラしそうな雰囲気なのに何もせず通りすぎて、と思ったら不意打ちの肩もみってのがイヤでイイですねえ。

宇宙人が概念を奪うシーンが多く、人はこうも概念に縛られているのか、というのが面白いです。「家族」の概念を奪われた妹の明日美が、家族の当たり前の心配を気持ち悪いものを見るかのように嫌がる。ここの前田敦子の豹変ぶりはスゴいです。「の」の概念、つまり「所有」を奪われた満島真之介の丸尾は、個人の所有の愚かしさを否定する演説を始めます。「仕事」の概念を奪われた光石研の鈴木社長は真治に「本当は解放されたかったんだ」と言われるほどはしゃぎ回り、児島の刑事は「自分と他人の違い」を奪われて自己と他者との区別がつかなくなり、笹野高史の品川は「敵」という概念を奪われて「みんな友達だよね」となる。概念の定義とその喪失による結果は、概念が縛りでもあり生きる規範でもあるということを如実に表しています。

しかし概念を奪われ過ぎるとただ生きているだけになるんですね。だから解放されたかのように見えても、もはや当たり前の社会生活は送れない状態だったりします。怖さを感じる間もなく。だから怖くはない、ただ手遅れ。侵略による人類滅亡よりも、概念を奪われるということの取り返しのつかなさの方が大きく映されるわけです。桜井が天野たち宇宙人に見せつけられる言動には人間として見ればやはり大きく欠けたものがあるわけで、でもそんな天野と行動していくうちにどこかシンパシーを感じてしまう桜井の心情もわからなくもない。それは取り返しのつかなさからくる諦めであったり、新しい価値観への憧憬だったりもするのでしょう。「宇宙人が攻めてくる」と叫ぶ桜井を狂人のように見る人々に「言うことは言った、あとは君らが判断しろ」と言う桜井には、一応は足掻いたけど手遅れ感はどうしようもないという達観があります。だからどことなく爽やか。

一方の鳴海と真治、この夫婦は倦怠期、浮気疑惑と最初から取り返しのつかない状態で、そんななか真治が別人となってしまっても、鳴海にとっては既に宇宙人だろうが人間だろうが大して変わらない状況だったのでしょう。しかしニュー真治が徐々に学んで人間らしさを取り戻していく(ように思える)姿、鳴海に対して優しく接しようとする(ように見える)姿に、鳴海は失われていたものの大切さ、そして失っていたことの寂しさを認識します。嫌いだった食べ物も「美味しい」と言って食べる真治に嬉しそうに笑う鳴海の可愛らしさが微笑ましい。しかしその取り戻せそうな予感も、侵略がすぐに始まることで叶えられないと知る鳴海の感情がせつなく、そんな鳴海をガイドであるという以上に守ろうとするニュー真治に、奪いきれなかった「愛」の概念を垣間見ることができます。

侵略という即物的なものだけではなく、精神的な面での取り返しのつかなさ。それは失って初めてわかるものがどれだけ多いかということでもあります。奪うだけの宇宙人にはそれがわからない、だから死という喪失でさえもただの結果でしかない。それを覆すのが「愛」の概念であるというのが、ベタなようでいて真理だったりするんですね。それでいて東出昌大の神父が語る「愛」の概念は何だかよくわからなかったりもするのが面白い。終わってみれば一人の女性の愛が地球を救ったというとんでもない話で、日常が非日常に勝利するという意外性がしっくりきているような、それでもどこか不穏さは残るような何とも言えない独特の感覚。そこが良いなあと思うのです。

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