2017
09.23

誰を信じるか、誰が裁くか。『三度目の殺人』感想。

sandome_no_satsujin
2017年 日本 / 監督:是枝裕和

あらすじ
スイート二名(ウインク)。



自分を解雇した工場の社長を殺害したとして起訴されている前科持ちの男、三隅。その弁護をすることになった勝ちにこだわる弁護士の重盛は、犯行を自供している三隅の減刑を目論むが、三隅のハッキリしない供述により本当に彼が殺したのか確信が持てなくなっていく……。『海街diary』『海よりもまだ深く』の是枝裕和監督・脚本による法廷心理ドラマ。

ドライでビジネスライクな弁護士である重盛と、言うことがぼんやりしてたり変化したりする被告人の三隅。この二人を中心とした法廷サスペンス、ではあるんですが、これが事件の真相や裁判の行方といったものに留まらず、思わぬ方向に展開していきます。死刑から無期懲役に減刑できればよいとする重盛に対し、のらりくらりしながら焦点をぼかす三隅。真実より優先される裁判の着地点、動機により変わる罪状など現在の司法を描きつつ、やがて何を信じるのか、何を裁くのかというより深いところへ切り込んでいくのが実に面白い。主観により変化する真実は、理解不要だったはずの人物とのシンクロを促し、心に刺を残します。

重盛役は『そして父になる』でも是枝監督と組んだ福山雅治。あけすけながらクリーンな印象が今作でも上手く活かされています。三隅役は意外にも是枝監督作は初参加となる役所広司で、人当たりの良さと同時に心に抱える闇を見せてきます。また被害者の娘の咲江役である広瀬すずが『海街diary』に続き抜群の存在感です。現実主義で重盛の同僚である摂津役に『帝一の國』吉田鋼太郎、まだ純真さの残る後輩弁護士の川島役に『オーバー・フェンス』『無限の住人』満島真之介、咲江の母美津江役に広瀬すずとの親子役がハマっている斉藤由貴ほか、『シン・ゴジラ』以降お堅い役が似合う検事役の市川実日子、スマートながらエロさの滲む橋爪功などが出演。

惑わされる語り口により、司法制度とは別のベクトルで問われる罪と罰、そして人間の存在意義。法廷や面会室でのこだわりを感じる演出、福山雅治と役所広司の融合と乖離を行き来する関係性なども面白い。タイトルの意味するところにも震えます。ホームドラマを離れた是枝監督が、さすがとも言える人間模様を描き出していきます。

↓以下、ネタバレ含む。








単純に思われた事件に様々な事実が隠されていた、というのは法廷ものではよくあることですが、事前に裁判内容を擦り合わせる日本の司法制度では劇的な展開というのは起こりにくいようです。劇中でも裁判官と弁護士と検事が話し合いますが、自白している以上はその落としどころを探るだけ。しかしそんな司法に対してちょいちょい疑念が差し挟まれます。裁判員制度であることの意識、審議し直さないのは裁判スケジュールの都合、同じ殺人でも動機によって変わる罪状。「もっと理解した方が」と言う川島に対して「理解や共感は必要ない」と重盛は言い、市川美日子の「あなたみたいな弁護士が罪と向き合うことを遠ざける」に対しては失笑で返す。仕事である以上効率化はいるでしょう、しかし人を裁くというのは仕事ということで割りきってしまっていいのか?そんな問いが根底にあります。

それは重盛がやがて三隅に飲み込まれていくことでも表されます。殺したあとわざわざガソリンを取りに戻る不自然さ、被害者の娘である咲江が訪ねてきていたという謎、週刊誌に語った美津江との関係やメールのやり取り。事件を調べるうちに浮かんでくる矛盾や三隅のハッキリしない態度に翻弄され、ガラス越しに手を合わせたりもするうちに、いつしか重盛は三隅とシンクロし始めます。摂津が「寒いから」と(しかもしつこく)言って避けていた北海道へ三隅の娘に会いに行くし、北海道の雪原で三隅と咲江と共に三人ではしゃぐという幻想を見たり、頬の血を拭う動作が重なったりする。三隅に対して「罪と向き合う」という言葉を使いますが、それはかつて嘲笑った検事の言葉だし、盲目の人が象を触ったときの小話を例にして自分がどこを触っているのかわからなくなっていると言うのも、三隅に取り込まれそうになっている困惑を表します。

三隅がなぜ裁判に負けるとわかっていて無罪を主張しだしたのか、その真相は明かされません。父親に凌辱されたと告白し去り際に涙した咲江、そんな彼女を守るためというのが一番しっくりくる理由ですが、それは重盛たちがそう思っているだけで三隅は認めていないのです。そもそも咲江の言うことが真実なのかもわからない。足の悪さが生まれつきなのに飛び降りたせいだと嘘をついているようだし、流す涙も重盛の娘が簡単に嘘泣きをして見せるくだりがあるため、疑わしく思えるようになっているのです。しかし広瀬すずの純粋そうな雰囲気もあってあの涙には心を揺さぶられるし、母親の美津江が意味ありげに「お父さんのこととか」と言うのも商品偽装のことなのか娘への仕打ちのことなのか判断が付きません。冒頭で回想や妄想ではない三隅の殺人シーンがあるので殺してはいるはずなのに、本当にそうだったのか観ているうちに自信がなくなってきて、頬についた血を拭う動作の反復に咲江と三隅の共謀が真実味を帯びてくるようにまで思えてきます。そして自宅で会話する美津江と咲江が真っ暗な影のなかに沈んでいく姿の方が、遥かに何かを企んでいるようにさえ見えるのです。

こうして真実に興味のなかった重盛が真実を追い求めようとすると、それは意図的な演出で曖昧にされます。「法廷戦略などどうでもいい、信じるか信じないか」と言う三隅に言葉を失い、「人を裁いていいなんて誰が決めるのか」と言う咲江に答えられない重盛。自分は裁かれる側だと言いながら、殺害現場やカナリアの墓に残した十字に裁こうとする側の視点さえ滲ませる三隅。もはや何を信じればいいのか、何が真実なのか、誰が裁くべきなのかもぼやけてきます。案の定裁判に負けて死刑判決を受けた三隅。しかし三隅に面会に行くたびに曇り空だった(雨が降らなくて良かったという台詞もある)というのに、最後の面会で姿を現した三隅には神々しいほどの日の光が差しています。「生まれてこない方がよかった人間もいる」と自虐的に言い、若き川島に「そんな人はいない」と否定された三隅ですが、最後には死刑判決にも関わらず己の生きた意味を見つけたかのように晴れ晴れした表情を見せるのです。

重盛の顔が面会室のガラスに映る三隅の顔と重なることからも、咲江のために、という三隅の心情(おそらくでしかないですが)に重盛が同調してしまったことはわかります。しかしその重なった顔は結局見隅の方から離れてしまうのです。それは「選別されている、理不尽だ」という三隅の怒りと悲しみ、そして諦念が、重盛に理解できるものではなかったからかもしれません。重盛の「あなたは器か」という台詞は、そんな三隅のかつて評されたような空っぽさのことだったのか、あるいは罪も罰も受け入れてしまう大きさのことだったのか。30年前の炭鉱で「一度目の殺人」を、今回の工場社長殺害で「二度目の殺人」を犯した三隅は、裁判と死刑制度により自分自身を死に追いやることで「三度目の殺人」を成立させます。裁かれたのか、裁いたのか。真実か、信念か。多層的なテーマと困惑による重厚さが、実に深い余韻を残すラスト。素晴らしかったです。

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