2017
08.06

魔女が住むのは森か心か。『ウィッチ』感想。

The_Witch
The VVitch: A New-England Folktale / 2015年 アメリカ / 監督:ロバート・エガース

あらすじ
黒ヤギさん怖い。



1630年のニューイングランド。町を出て荒れ地に住むことになった敬虔なキリスト教徒のウィリアム夫妻と5人の子供たち。しかし近くの森の側で、長女のトマシンの目の前から赤ん坊のサムが忽然と姿を消す。これを皮切りに、一家はやがて家族のなかに魔女がいるのではという疑心暗鬼に囚われていく……。第31回サンダンス映画祭で監督賞に輝いたファンタジーホラー。

16~17世紀のヨーロッパで行われた魔女裁判のように、キリスト教社会における背教者という概念を持った「魔女」。本作はその魔女がモチーフです。家族と共に町を出て不便な荒れ地で暮らすトマシンが、あやしている最中に姿を消した赤子の弟。狼の仕業と思い諦める父と、ひたすら嘆き祈る母、騒ぐ双子の弟妹。しかし「魔女」というワードがやがて別の恐怖としてトマシンや弟のケイレブにも忍び寄ってきます。実に美しい構図の絵画的ショット、光と影の使い方から不穏さを煽る音楽まで心がざわつく演出、長回しで映す告解や恍惚の圧倒的迫力と、尋常ではない映画的な力。そして敬虔なキリスト教徒である家族を通して、神への依存と悪魔の誘惑を同時に描き切っているのが凄い。魔女という存在より、魔女という概念がもたらす話と言えます。

トマシン役のアニヤ・テイラー=ジョイは『スプリット』の主演の子ですが、本作の方が先の出演なんですね。顔の作りとか雰囲気が作品世界にとてもマッチしてます。あと弟のケイレブ役のハーヴェイ・スクリムショー君の熱演が良いんですよ。監督のロバート・エガースはこれが初メガホンだそうで驚き。この不安定さが引き起こす恐怖は『哭声 コクソン』に近いものがあります。

次々襲い来る不幸の連鎖に、明かされていく家族の本音。見かたによっては地味な展開ではあるんですが、引き込まれてしまえば混沌の闇が口を開きます。果たして辿り着く先は解放なのか新たな束縛なのか。凄まじい。そして素晴らしいです。

↓以下、ネタバレ含む。








時代背景とも相まった絵画のようなショットが随所に見られます。光と影の使い方はレンブラントやゴヤを思い起こし、侘しさのある風景はミレーのようでもあり、ときにはテーマである宗教そのままの宗教画のようなショットもあって、どこか厳か。また、いかにも作物の育たなそうな荒れ地の暗い光景や、ろうそくの光でぼんやり浮かぶ屋内の様子、森の不気味さなど、映像により与えられる印象には追い込み感があります。静寂を切り裂くように響く薪割りの音響、不安を煽るような音楽なども心臓に悪い。ホラーとしての演出が際立ちます。

冒頭で父ウィリアムと教会との宗教的見解の不一致から町を出る一家。彼らは神を心底信じる家族として描かれていきますが、その宗教との接し方は信仰というよりは強迫観念に近いものがあります。救われるはずだと信じ、すがるように祈る。しかし赤子が攫われてからは、教義にこだわるゆえに抑圧された思いが浮かび上がってきます。姉トマシンは、アニヤ・テイラー=ジョイの持つ美しさと、そこに内包されるエロティシズム、さらには月のものが始まったり、ヤギの乳から血が出たり、しまいには母を殺した返り血を浴びたりと、そこにまつわる「血」のイメージが鮮烈。弟ケイレブは、姉の乳にどぎまぎしたり、明確に女性にたぶらかされたり、救助後に放つ「上に乗った」「はらわたかき回す」「口づけを」といった妄言、死ぬ間際に見せる恍惚の表情など、「性」のイメージが強烈。共に神の教えとは逆を行くイメージが強いわけです。

母キャサリンは過去に見た夢のなかで「イエスに寄り添った」という、これまた性的とも取れる告白をします。父ウィリアムは母の銀のカップを勝手に売ったり、トマシンに農業も狩りもできない能無しと罵られたりして、遂には己の傲慢さを認めてしまいます。母の真意と父の実態まで全てがさらけ出され、敬虔なキリスト教徒であったはずの一家はいつの間にか罪人のように描かれるんですね。ケイレブの死に際、母の独白、父の告解など、それぞれの長回しはみな凄まじい圧力。そんななか双子だけが異質で、場を悪い方向にばかり持っていく言動には本当に悪魔が憑いているのではと思えてしまいます。

作り的には「悪魔によって家族の命が奪われ、魔女がトマシンを仲間にする」という話に思えますが、しかし本作がサタニズムを描いたものかと言えば、それを明言している描写はギリギリ無い、と言えるでしょう。正確にはその境界線をギリギリのところで渡り歩いています。ケイレブを森で誘う女性が魔女かどうかはわからないし、悪魔憑きかと思われた双子は納屋に閉じ込められたとき心底怯えているようだし、父を襲う黒ヤギはヤギの行動の範疇から外れているわけでもないのでルシファーとは言いきれません。母が赤ん坊のサムかと思って乳をやるのがカラスというのにはゾッとしますが、発狂しかけて赤ん坊の幻覚を見たと言えなくもないのです。

最後に森のなか裸で踊る人々がサムをさらいケイレブを誘惑したのだとしても、あれが悪魔や魔女であるとは言い切れません。ヤギの血を飲む老婆も魔女なのか気のふれた森の住人なのか判然としないし、トマシンに語り掛ける低い男の声にはさすがにサタン登場かと思えますが、あれでさえトマシンが葛藤する自身の心の声と話していると取れなくもないんですよ。しかしながら、これら全てが実際に魔女や悪魔の仕業として受け取れるようにもなっているのです。そうした境界が曖昧でハッキリしないところが、逆に言い知れぬ恐怖として膨らんでいきます。

コミュニティの持つ恩恵に背を向けて茨の道を歩んだ一家を襲ったのは、過酷で希望の薄い日常だと言ってもいいかもしれません。それにより、傲慢なプライド、性的な渇望、家族への苛立ち、そういった神の御名の元に抑え込んでいた本心が徐々に姿を現し、「魔女」の持つ概念がそれに拍車をかけ、ついには臨界点を超えていきます。忌避すべきでありながら惹かれてしまうという二律背反。そしてその行き着く先は、全てを脱ぎ捨てて己の望むがままの人生を送ること。裸のまま宙へと浮かんでいくトマシンが実際に飛んでいるのか、これが彼女の心象を表しているだけなのかはもはや関係ありません。ここで彼女が初めて見せる笑顔に、解放された喜びが漲っているという画が壮絶なのです。そしてこれが悪魔に囚われた新たな束縛でないとも言い切れない、というのがまた凄まじい。やられました。

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