2017
07.19

魔法だけでは変われない。『メアリと魔女の花』感想。

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2017年 日本 / 監督:米林宏昌

あらすじ
ほうきは決まった場所へ置きましょう。



大叔母の家に越してきた11歳の少女メアリが森の中で見つけた不思議な花。それはかつて魔女の国から盗み出された、魔法の力を手にすることができる花だった。魔女のようにほうきで飛んだメアリは魔法世界のエンドア大学にたどり着き、入学許可までされるが……。イギリスの作家メアリー・スチュアートの児童文学『The Little Broomstick』を元にした米林宏昌監督によるファンタジーアニメ。

スタジオジブリで『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』を手掛けた米林宏昌監督が、ジブリ退社後の初監督作となる本作。7年に1度しか咲かないという魔女の花を偶然見つけてしまった少女メアリが、魔法の力を得て繰り広げるアドベンチャーです。柔らかく色鮮やかな絵、少し不思議な世界、友情と冒険。ライトなファンタジーアニメとして見れば十分及第点だと思います。テンポが悪く退屈な場面はあるし、残酷さがまるでないぶん薄味だけど、作りがとても丁寧だし、展開に意表を突かれるところもあります。

主人公メアリがスゴく可愛らしいんですよ。ドジっ子属性は好きじゃないので序盤はイラッとしたけど、「えっえっ」という戸惑いや「えぇぇぇ」という驚き方や調子に乗りやすい性格や涙の溢れる表情などとてもキュート。メアリ役は『湯を沸かすほどの熱い愛』『無限の住人』や、声では『思い出のマーニー』でも出演した杉咲花ですが、彼女の声も演技もスゴくイイ。事件に巻き込まれる少年ピーター役は『借りぐらしのアリエッティ』でも監督と組んだ神木隆之介。ほかマダム役に天海祐希、ドクター役に小日向文世、赤毛の魔女役を満島ひかりなど。

本作は米林監督と、同じくジブリ出身の西村義明プロデューサーが設立したスタジオポノックの長編第1作になります。この出自が特殊であるため、ジブリ作品との比較というハードルがどうしても付いて回るんですね。これは本人たちも「ジブリを受け継ぐ」と言っている以上避けようがなく、観る方もそこは意識的にならざるを得ない。作品の出来とは別の次元で何だかんだ言われてしまうのがツラいところです。それがわかっていても「魔女」というモチーフを選んだ点はチャレンジングと言えるし、容易に外せないジブリという看板に真っ向から対峙した、と言っていいでしょう。

↓以下、ネタバレ含む。








■既視感と新鮮味

ジブリで培ってきた積み重ねがあるのだし、ジブリ出身のスタッフを集めてる以上、ある程度の既視感はしょうがないと思うんです。ただそれがあまりにも多い。魔女、ほうき、黒猫などが『魔女の宅急便』を彷彿とさせるのはモチーフ上しょうがないとして、エキサイティングな導入部、ほうきを取り出すために木をむしる様、手の中で光る花の青い光、宙に浮く城などは『天空の城ラピュタ』、鹿に乗って走るのは『もののけ姫』、ドクターの乗る蜘蛛みたいな乗り物は『千と千尋の神隠し』的(『スパイダーマン2』のドック・オクみたいとも言える)と枚挙にいとまがありません。特に『ラピュタ』風味は強い。さすがにこれだけあると意識的なのだろうと思うのです。古き良き時代のジブリが持っていた冒険とファンタジーの雰囲気を出したかったのでしょうか。そういう意味ではもうそのまんまであり、そこには開き直りすら感じます。

でも多くの観客が求めるのもその古き良きジブリなのかもしれず、そのサービス精神を無下に否定するのもなあとも思うのです。それに既視感の影に隠れがちですが、独自さもあると思うのですよ。魔女の花である「夜間飛行」の水っぽい感じや魔力を得るのがスライムみたいな花の液体であるとか、マダムが水の形で現れるときの不気味さや空飛ぶルンバで迫ってくる恐怖。ドクターの元で働くロボットの穴の空いた形状は心がないってことかなあとか、表情だけでツッコミをこなす猫のディブが面白いなあとか。擬人化してるというわけでもないのにほうきが表情豊かというのも良いです。


■等身大の魅力

まあひょっとしたらそれらも過去作品との類似は指摘できるかもしれませんが、ただ主人公のメアリの造形は過去のジブリ作品とは一味違うんじゃないかと。調子にのりやすいドジっ子という性格、赤毛のクセっ毛ツインテールや、ほうきに乗って敵地に乗り込むというのにスカートでニーソという見た目、気にしてることを言われてプリプリ怒ったり一人言を言いながらニヤニヤしたり、場の流れで思わず嘘を付いてしまったりという稚気。正義感が強いというわけではないけど、友達を見捨ててはおけないという真っ当な感覚。何でしょう、杉崎花の表現力もあって、ごく普通の女の子というか、11歳の少女という等身大の魅力があると思うんですよ。

そんな子が「あたしだって変わりたい」と言って魔女の力を楽しんだり異世界に飛び込んだりすることでワクワクを共有しやすいです。花を手折ってしまうことで表す不器用さと言うか大人との違い、そこでヘコんでおきながら魔女の花を平気で折り取ってしまう浅はかさ、みたいなのもありますね。鏡に写った大叔母に「一緒に帰る」と宣言するのと同時に、日の光がパーッと当たって明るくなる、なんて演出はわかりやすいけど爽やか。最後にピーターと帰るときは一つ残った髪ゴムでポニーテールにするというちょっとした変化もイイ。

あといくつか意表を突く展開には驚かされます。解放された動物たちが協力して大行進するのには「ターザンか!」という興奮があるし、大叔母さまが冒頭に出た赤毛の魔女だったというのはそこに繋がるのかという感じの継承感があって良いですよ。あとピーターが帽子を脱いだときの髪型が何となく予想外で面白いです。


■否定することによる弱さ

ジブリ作品を連想させるという点より、それとは関係なく演出的に不味い点の方が気になりました。序盤の展開は人物紹介があまりスムーズではないため退屈。またメアリが森に行き花を見つけて摘んで帰る、そしてまた森に行って今度は花から魔力を得るという往復や、家→エンドア大学→家→エンドア大学→魔女の家→エンドア大学→家という散々繰り返す往復が、世界を決定的に狭めていて広がりに欠けます。魔法を描きながら魔法の呪文は少なく、エンドア大学の生徒は顔がなくて完全にモブ、メインの登場人物も極端に少ない。魔法関連はちょっと記号的です。

テーマとしては少年少女の成長物語というのがあるでしょう。成長したいと言うメアリ、早く大きくなりたいと言うピーター。しかしそこに魔法が出てきて必要以上の力をメアリが得たりトラブルに巻き込まれたり、ピーターに至っては変身魔法で大人になりかけたりします。だから魔術の真髄で全ての魔法を解く際に「魔法なんていらない」と言ってしまうのはわからなくもないんですが、それまでのワクワクをその一言で全て否定してしまうのには、じゃあ魔法とは一体何だったのかという気持ちになります。あえて言うなら身の丈に合わない力に頼ることはない、自分を卑下することはないということでしょう。でもちょっと弱い気がします。


■訣別か進化か

非日常性のあるファンタジー映画は独自の作家性や哲学が出しやすいと思うんですが、逆に気を付けないといたって普通という結果になりかねないようにも思えます。本作は皆の観たかったジブリを目指したせいか、その普通な感じを強めることになった気がしてしょうがないです。話は冒険ものなのに作りが冒険してないし、自由になったはずなのに縛られているように見える。無名スタジオの名をまずは売るという戦略もあるでしょうが、それでもそこにあるのがジブリへの愛情と思い出なのか、それともジブリの呪いを引きずってるのかと勘繰りたくなります。そう考えると、夢のある魔法世界の現実を知って自分の世界に帰ろうとするメアリの姿は、ジブリという夢の象徴から脱却しようとしたスタジオポノックのようにも思えてくるし、であれば「魔法なんていらない」と夢の象徴を否定するのは、過去との訣別なのでしょう。エンドロール終盤に「感謝」としてジブリの御大3名の名を表示するのも、ケジメを付けたのだという感じがしてきます。

でももしそうなら、それは作家性や哲学どころか内輪ネタでしかありません。個人的にはあまりそういう解釈はしたくないんですよ。そんな内輪ネタだと思って観たらつまんないし、どうせなら物語を通して何かを享受したいじゃないですか。だから本作で描くのは成長しようとする姿であり、自己の肯定であり、障害を乗り越える意志である、でよいと思うのです。その享受が物足りないと感じるのは、単に作りの甘さです。

それでもあえて穿った見方をするならば、何度もほうきを持ってくるフラナガンというキャラ、これが敵に回るでも味方するでもなくてスゴく異質なんですが、この付かず離れずメアリに道を示す人物が、監督の思う理想の先達の姿なのかなあ、なんて思います。そしてエンドロールでほうきの代わりに自転車に乗るメアリ、このほんのちょっとの進化がスタジオポノックの現状と重なるんじゃないですかね。皆の観たかったものを作ったことで培ってきたものが健在であることを見せ、継承者であることを示し、そこに少し違う独自性も足して見せた、というちょっとした進化。スタートはした、これからだ、という感じです。米林監督は次回作で化けるのかもしれません。

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