2017
03.27

人は泣き叫び、鶏は三度鳴く。『哭声 コクソン』感想。

kokuson
The Wailing / 2016年 韓国 / 監督:ナ・ホンジン

あらすじ
國村隼がくるぞ!(子供大泣き)



とある平和なある村で連続する虐殺事件。犯人たちは肌が湿疹でただれ放心状態で現場にいる点が共通していた。素性の知れない余所者の男に何か秘密があるのではと村人が噂するなか、事件を担当する警官ジョングは、自分の娘にも同じような湿疹があることに気付く……。『チェイサー』『哀しき獣』のナ・ホンジン監督によるサスペンス・スリラー。

隔絶された雰囲気の漂うひなびた田舎町、そこで次々起こる不可解な殺人事件。犯人がその場に残っているため逮捕はされるものの、なぜ立て続けに起こるのか分からないという異常性に不穏さが増します。やがて部外者に原因を求めて排斥しようとする集団心理や、非日常性を高めるオカルティックな気味悪さまで立ち上がってきて、それらの得体の知れない恐怖にいつの間にか追い詰められていく主人公のジョング。そして突如襲いくる展開に足元が崩れ去るような衝撃を受けるのです。

臆病な警官ジョング役には『アシュラ』の極悪検事で強烈な印象を残したばかりのクァク・ドウォン。本作が初主演なんだそうです。同じく『アシュラ』ではドウォンと敵対関係だった『ベテラン』のファン・ジョンミンが、今回は非常にエキセントリックな役柄でまた違った顔を見せてくれます。そして何と言っても謎の余所者を演じる國村隼!不気味で静かな威圧感と、最後まで予断を許さない役回りで、圧倒的な存在感を見せてくれます。しかも韓国の青龍映画賞で男優助演賞と人気スター賞をダブルで受賞という快挙。

色々な要素がごった煮となり、寒村の猟奇サスペンスかと思ったらそんなジャンルさえも超越し、それでいて有機的に融合してるような印象。現実から解離してるのに生々しいと言うか、奇抜なのに精緻と言うか、何とも表現が難しいです。鑑賞直後は「なんだこれ!」と「すげー!」が入り交じった混乱と興奮。過去のナ・ホンジン監督作のスピーディーさとは違う、じわじわと迫りくる狂気が凄まじいです。

↓以下、ネタバレ含む。








■ジャンルを超えた世界

序盤は自分の家族を皆殺しにするという事件が頻発し、現場は血だらけで凄惨の極み。この辺りはナ・ホンジン作品に見られる美術のエグさが際立ち、凶行のシーンそのものはないにも関わらず恐ろしさが増します。しかしそれらと同時に警官ジョングの能天気とも言える日常も綴られ、夫婦の営みを娘に見られちゃったり、停電時の闇の中に浮かぶ人影にビビりまくったり、なんならちょっとコメディのようなシーンもあったりします。そして連続する事件のなか噂に上ってくる山の中に住む余所者の男の話。そこには村社会の閉塞感があり、噂の信憑性は定かではないのに「余所者だから怪しい」という思考が蔓延していくのには、恐ろしい事態から目を背け何かに原因を擦り付けたいという集団心理を感じます。かと思えば、死んでいたと思った男がゾンビのように襲ってくるというホラーとしか言いようのない展開があったり、祈祷師の登場により一気にオカルトな様相を呈したリ、『エクソシスト』と言うか『エンゼル・ハート』と言うか、一体なんのジャンルなのかも不明瞭になってきます。

戸惑うような描写も多く、ジョングの見る夢は一体どこから夢だったのか境目がわからないし、ふんどし一丁で鹿肉をむさぼる國村隼は恐ろしいインパクトだし(でもその強烈さが嬉しい)、ファン・ジョンミンのエキセントリックにもほどがある祈祷師の祈祷フルコースには、ちょっと「グルーヴィー!」とか思っちゃいます。そして度肝を抜かれるラストシーン。考えれば考えるほど分からなくなり、それでいて不思議な統一感もあって、とにかく圧倒された気分で終わる。いやあ凄いです。凄いんですが、本作は非常に解釈が難しい。と言うか監督のインタビューによれば、敢えて観る者によって解釈が変わるように作られているようなので、そこは狙いがズバリとハマっているわけですね。見事に翻弄されます。


■キリスト教との関連

ナ・ホンジン監督はクリスチャンだそうで、それも鑑みれば本作がキリスト教的な観点を持つ物語なのは間違いないでしょう。しかし山の中の男、白い服の女、祈祷師、という三人の役割が非常に分かりにくいですね。ちょっと考えてみます。

山の中の男については、冒頭で示されるルカの福音書の一節「私の手と足に触れなさい」という言葉の通り、ラストシーンで「触れてみろ」とイサムに言うこと、彼の手に聖痕のような穴が開いていること、一度転落して死んだはずなのに復活していることを考えれば、彼はキリストである、と見るしかなくなります。それでいてラストでは悪魔のような見た目になるんですね。これは神の子であっても特に信心のない者にとっては、その奇跡的な力は悪魔と変わらない、ということなのかもしれません。その場にいるのは神父見習いのイサムですが、その点では彼はまだ神を信じるに至ってないということであり、でも聖職者ではあるので、たどたどしいながら神の言葉を理解する(=通訳する)ことはできる。でも他の村人はその言葉を理解できずただ虐げようとする。ということは村人たちはキリスト復活を信じていないユダヤの人々と同義なのでしょう。

では白い服の女は何者なのか。彼女は山の中の男が黒幕であるかのようにジョングに告げたり、男が逃げる姿を山の上からじっと見ていたりと男とは敵対関係に見えます。とすれば男がキリストなら彼女は悪魔か、あるいは異教徒やユダのような裏切者でしょうか。ただ、キリストの復活をジョングに告げようとしていた、ずっと見ていたのはキリストの死と復活を見届けるためだった、と考えれば、彼女は「聖人」の一人、たとえばキリストに従ったというマグダラのマリアのような存在であるとも見れます。鶏が三回鳴くまで待てと言ったり、ジョングに石を投げるのも、キリストやペトロなどの聖人の言葉に繋がります。

祈祷師はと言えば、最初は山の中の男に「殺」を打つので男の関係者ではないようですが、後で「間違いだった。彼も祈祷師だ」と言います。となれば祈祷師は純粋に悪を祓う存在ということでしょうか。白い服の女に近付いたとき盛大に吐血するので、彼女が聖人だとすれば悪魔なのかとも思いましたが、単にキリストに「殺」を打った報いとも考えられます。しかし祈祷師は最後に死に瀕したジョングを写真に収めるということをしており、まるで悪魔みたいに魂を吸いとっているかのようにも見えるんですよね。うーん、なかなか難しい。


■罪と罰

ではなぜ山の中の男=キリストは人々を苦しめるようなことをするのか。男は冒頭で釣り針にエサをつけるシーンがあり、誰かがエサにかかるのを待っているかのようです。つまり神により信仰が試されている、ということを象徴しているのかもしれません。きっかけとなるエサをバラまき、そこに信仰があるのかどうかを見ようとしている、そして罪を犯したら罰を与える、ということなんでしょうか。白い服の女は「娘が苦しむのは父親の罪のせいだ」と言います。ジョングの罪って何でしょうか。ジョングは女の言う戯れ言に影響され、男を余所者というだけで追い詰め、常識では手に負えないので祈祷師に頼み、でもそれも信じきれず祈祷を中断させます。女が鶏が三度鳴くまで行ってはいけないと言う忠告も聞かない。娘のためというのは一貫していますが、結果だけ見れば場をかき乱しているかのよう。目の前のことしか見えていないんですね。つまり神などの目に見えないものはそもそも信じていないのではないかと考えられます。信仰心のないことが罪ということかもしれません(あくまで神側の基準に照らせばです)。

また、ジョングの行動はいちいち「七つの大罪」に当てはまるようにも思えます。面倒なことは後輩の警官にやらせようとする「傲慢」、朝っぱらから妻とまぐわう「色欲」、元凶を追い出してでも娘を救いたいという「強欲」、すぐに仕事をさぼろうとする「怠惰」、ソウルにいる署長への「嫉妬」(があった気がする)、現場に呼び出されてるのにもりもり朝食を食べる「暴食」、激情に駆られ男を罵倒する「憤怒」。多少こじつけ感はあるし、この程度は誰でも少しはあるようなことばかりだし、なかには「愛情」に起因するものもありますが、それでも罪であると見なされる行為が積み重ねられていく、というのが本作では重要なのでしょう。

ただここまで挙げたことも、実はいかようにも取れるように作ってある、というのが正しいところなんでしょうね。山の中の男は単に頭のおかしい変態だったのかもしれないし、祈祷師は高潔なるスーパーヒーローだったのかもしれないし、白い服の女は鶏の声を聞くのが日課の野次馬だったのかもしれない(無理やり)。神かもしれないし、悪魔かもしれない。舞台の町の名前も「谷城(コクソン)」でタイトルの『哭声 コクソン』と響きは同じであるというところからして、様々なものに二重の意味がある、ということを示しているかのようです。つまりこの作品は、信仰により、もっと言えば自分が見ようとする視点により、物事の見え方はいくらでも変わるのだ、ということを体現しているのかもしれませんね。

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