2017
01.29

主は黙して語らず。『沈黙 サイレンス』感想。

Silence
Silence / 2016年 アメリカ / 監督:マーティン・スコセッシ

あらすじ
赦しが欲しいのです。



キリスト教が禁じられた17世紀の日本。棄教したという師を探すため日本にやったきた若き宣教師ロドリゴとガルペだったが、キリスト教に対する想像以上の激しい弾圧を目の当たりにする。やがて目的地である長崎へと辿り着くロドリゴだったが……。遠藤周作の小説『沈黙』を巨匠マーティン・スコセッシが映画化したヒューマン・ドラマ。

監督のスコセッシが原作を読んだのが1988年、「撮りたい」という言葉は見かけていましたがなかなか実現せず、以来28年の年月を経てようやく映画化にこぎつけたというスコセッシ念願の企画です。厳しいキリシタンへの弾圧下にある江戸初期の日本、そこへ渡ってきたポルトガル人宣教師ロドリゴの目を通し、キリスト教の矛盾とそれを翻す教義とのせめぎ合い、引いては信仰とは何かを様々な面から描いていて凄まじい。人が求めるのは神なのかパライソ(天国)なのか、或いはキチジローのように一時の赦しなのか。静謐でありながら激しく、残虐でありながら厳か。原作は不勉強ながら未読ですが、それをアメリカ人であるスコセッシがここまでの映像化を成し得たというのは素晴らしいです。

主人公ロドリゴ役である『アメイジング・スパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールド、信仰を守ろうとしながら打ちのめされ苦悩する様がとても良いです。ロドリゴの宣教師仲間ガルベ役が『スター・ウォーズ フォースの覚醒』のアダム・ドライバーで、ちょっと揺らぐ感じにカイロ・レンっぽさがありますね。二人が探す師をリーアム・ニーソンが演じてますが、アクションはなくてもここぞというときの圧力が凄いのはさすが。

日本人キャストも名前を知ってる人が予想以上にたくさん出ててちょっと驚き。皆良い仕事をしてます。猫撫で声のイッセー尾形の怖さ、鬼気迫る塚本晋也の覚悟、窪塚洋介の爛々と光る目。そして本作に限っては浅野忠信の英語がとても頼もしい。「Terrible!」がとても良かった。他にも小松菜奈や加瀬亮、片桐はいり、中村嘉葎雄など、なかには気付くかどうかというレベルで青木崇高とか渡辺哲とか大挙して出演。EXILE AKIRAとか気付きませんでした……高山善廣にはちょっと笑いましたが。これだけ日本人キャストも出てるのに日本では撮影許可が降りず結局台湾でロケをしたというのが日本人としては本当に口惜しいですが、とても良い情景が多く建物や衣装も全く違和感ないので、真摯に作ったのだなと感じられます。

上映時間162分はそれなりに長さを感じるけど、テーマの重さに反して飽きることなく引き付けられるスコセッシの上手さには『ウルフ・オブ・ウォールストリート』以上に驚嘆。宗教に対する人間の思い、強さと弱さといったものを描き出しており、心に深く刻まれます。

↓以下、ネタバレ含む。








キリスト教徒への弾圧シーンは非常にむごたらしく、穴の空いた柄杓から熱湯をかける、張り付けで荒波にさらす、見せしめに首を斬る、簀巻きにして海に落とす、逆さ吊りで血を抜くなど凄惨を極めます。そこまでしてキリスト教を取り締まるのにはいくつか理由があるかと思いますが、劇中でも島原の乱が言及されるように、神の御名の元で一揆などのきっかけとなる宗教は幕府にとって都合が悪かったということでしょう。そんななか、踏み絵を拒否すれば死が待っている、それでも棄教を拒む信者たちの信仰心にロドリゴは感嘆します。

しかしそこにはパライソ(天国)に行きたいがために神を信じるという、本来は神を信じることでパライソに辿り着くという教義からは歪んでしまった実体があります。神のために命を投げ打つのではなく、自分たちが救われたいという思いがまずあるわけです。弱き者がすがるのだからこれは当然ではあるのですが……。ジイサマが他に連行される者を募ったときに、余所者のキチジローを差し出そうとする村人たちには、その保身と独善がありありと浮かびます。井上様が言う「この国は沼だ。根元が腐る」には、元々多神教であるこの国の、信仰に対する根っこの部分が異なる様がよく表れています。フェレイラ師もまた「信じているのは我々の神ではなく歪んだ福音だ」と指摘しており、それを体現するのが、裏切るたびに告解を求めて赦されようとするキチジローです。懺悔さえすれば赦されるのか、というキリスト教の矛盾がそこにはあります。

そして何より、祈っても答えない神をどうやって信じるのか、という信仰そのものの矛盾です。信者たちを無下には出来ず、歪んだ教えを正しながらも告解を聞き入れていくロドリゴたち、しかし彼らを襲うのは自身の信仰までをも揺るがす悲劇の数々です。通辞の浅野忠信に「優しいから余計苦しむ」と言われるように、踏み絵は踏んでいいと言ったロドリゴの目の前で命を落としていく者たち。そして祈れども救いの手を差し伸べない神。同士であるガルベが小松菜奈を救おうとして一緒に溺死させられる現実を、ロドリゴは成す術なく見ているしかできません。イエスがユダに言った言葉としてロドリゴが繰り返す「今、成すべきことを成せ」を、加瀬亮の首を斬らせた奉行が「やるべきことをやれ」と同じように言うのが何とも皮肉です。

終盤のフェレイラ師とロドリゴの言い合いは実に宗教というものの核心を突いており、リーアム・ニーソンの説得スキルも相まって、棄教をすることに何の問題があるのか分からなくなってきます。「神の息子」を表す「サン」を「太陽」とみなす日本人、というのにもしっくりきてしまうんですね。さらに「キリスト教国日本にしようとしたためにこうなった」という通辞の言葉の重さ、実はキリスト教のことを理解したうえで「この国には根付かない」と言っているらしき井上様の執拗な理詰め、そして目の前でぶら下がる信者たちと、恐ろしいほどの追い詰め方でロドリゴに逃げ場のなさを突き付けてくるのです。井上様の「ウェルカム」に滲み出る抗えなさには震えます。

『沈黙』というタイトルには、祈っても答えない「神の沈黙」、そして棄教しても棄てきれない信仰を隠す「ロドリゴの沈黙」の二通りの意味があります。この"静寂"や"言葉にできない思い"というのは演出にも表れてますね。タイトルの出方からして、煩く鳴く蝉の声をビタリと止めての「Silence」には震えます。音楽がほとんど付かないのも印象的で、太鼓の音をフィーチャーしたものはありますが、曲と呼べそうなのは唯一モキチの讃美歌くらいでしょうか。鳴り響く塚本晋也の歌声(美声!)には悲哀が込められていますが、そう言えば死と隣り合い、さ迷い、苦悩し、価値観が揺るがされるという点で、本作は塚本監督の『野火』と通じるものがあるとも言えそうです。

沈黙を破りロドリゴが最後に聞いた神の声は、果たして本当に神なのか。あるいは彼自身の心の声なのか。しかしそれが彼自身の声だったのだとしても、大事なのは表向きの態度より自身の心のありようであるという点で、それは「信仰」というものの本質の一端ではあるのでしょう。フェレイラ師もまた「主は」という言葉を使ったことで「沈黙」の体現者だった可能性がありますが、そこにロドリゴは触れようとはしません。最後まで「沈黙」を貫き通し、妻により小さなロザリオを手にして旅立ったロドリゴ。彼がパライソに行けたのか、それはもはや彼自身にしか分からない、彼の信仰のみが辿り着ける領域なのです。

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