2016
12.13

溢れる情熱は歌声となって。『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』感想。

Florence_Foster_Jenkins
Florence Foster Jenkins / 2016年 イギリス / 監督:スティーブン・フリアーズ

あらすじ
ボエ~♪



ニューヨークの社交界で著名なマダム・フローレンスは、かねてからの夢であるソプラノ歌手になることを決意。しかし彼女はとんでもない音痴だった。夫のシンクレアは妻のために信奉者だけでのリサイタルを開催してしのごうとするのだが……。実在の人物フローレンス・フォスター・ジェンキンスを描くヒューマン・ドラマ。

実話を元にしたお話です。歌劇などを上演するヴェルディ・クラブを営むマダム・フローレンス。親の莫大な遺産を相続して自由に暮らす彼女が歌手になるためレッスンを開始し、リサイタルを開いて人前で歌うことになります。しかしこれが音程は外すわリズム感もおかしいわの酷いもので、しかも自分では下手だとは微塵も思っていないという厄介さ。ところが彼女は1944年、ニューヨークの音楽の殿堂カーネギー・ホールに立つことになるのです。これが別にフローレンスが成長したりスキルアップしたりするわけではないんですね。そこには彼女を支える夫の存在があったのです。なぜ彼女がそこまで歌おうとするのか、なぜ夫は下手なのを知っていて止めないのか。そんなドラマが描かれていきます。

フローレンス役はメリル・ストリープ。さすがのアカデミー常連、歌の下手さの上手さ(ややこしい)が凄くてですね、高音を出し切れてない感じとか、それでいて感情はこもってる歌い方は見事と言うしかありません。体型も太ましい感じになってますが、何か詰めてるんでしょうか?ストリープはまず上手く歌うことを練習し、そこから崩して歌う練習をしたそうで、理屈は分かるけど歌う方としてはかなり気持ち悪いアプローチだったろうなあ。夫のシンクレア役は最近は『コードネーム U.N.C.L.E.』にも出ていたヒュー・グラント。メリル・ストリープとは一回りくらい違いますがちゃんと夫婦に見えるし、優雅な紳士っぷりと難問解決能力がスマートながら、ある悲しみも湛えていて良いです。彼と親しい女性キャスリーン役は『ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション』のレベッカ・ファーガソンで、美しいなあ超好きだなあ。『ガール・オン・ザ・トレイン』から立て続けの出演作は嬉しい限り。あとピアニストのコズメ役であるサイモン・ヘルバークがとてもイイ。ちょっとアラン・カミングっぽさがありますね。

実際にフローレンスが歌っている音源も聴いてみたんですが、これが本当に酷いんですよ。あまりの酷さに笑うか怒るかしかなく、なぜこれがいまだに世に出回るのか不思議なほど。本作も見かたによっては金持ちの道楽としか思えず、「なんだこれ」となりかねません。しかしこの作品は、どこに焦点を置くかで面白さが違ってくると思います。マダムを中心に見てしまうと正直引くことも多いんですが、彼女を取り巻く人たちが何のために動くのかを見ると非常に興味深い。金か、同情か、興味本位か。そして夫のシンクレアがマダムに負けぬ主人公だと分かるのです。

↓以下、ネタバレ含む。








フローレンスはなまじ金があるだけに自分のやりたいことができてしまいます。序盤の舞台でも天使やら女神やらの最も神々しい役をやりますが、それもヴェルディ・クラブの主催者だからなのでしょう。でも、まず「やろう」と思う行動力はかなりのもの。歌手になると言い出した時も、有名な指揮者やらを巻き込もうとしたり、即座にピアノのオーディションを行ったり、頃合い良しと見るや(全然良くはないんだけど)リサイタルを開くし、シンクレア不在中にいきなりレコーディングするし、挙句の果てにカーネギー・ホールです。冷静に考えると恐れ入りますが、問題は自分の下手さに全く気付かない、どころか「上手い」とさえ思っていることです。レコード作ったんなら自分でも聴いてると思うんですが、客観的に聴いてもダメさが分からないということなんでしょう。

ただ、悪気はないんですよね。歌手になろうというのも、野望というよりは夢見る乙女の熱に近い。ナルシシズムとも微妙に違います。好きな歌を歌いたいという思いが溢れちゃってる感じと言うか。コズメのオーディションのとき、彼が弾いてるのに構わず自分語りをしちゃうのも溢れてきた思い出を止められないからでしょう。そこには梅毒で50年生き長らえ、シンクレアいわく「音楽の力で生きている」という背景もあります。歌いたくてしょうがないという溢れる情熱、加えてマダムの人となりもあって、酷い歌だとは思いつつ何だか憎めないように描かれています。

もう一つの焦点として、シンクレアがなぜそこまでマダムのためにするのか、というのがあります。妻の言うことだから、というだけでは収まらないほどの努力をする姿に、ひょっとして遺産目当てなのかとも思うし、キャスリーンという愛人がいることもあって最初は少し疑わしい。「愛の形は一つじゃない」と言いながら、マダムが別宅に来たときにキャスリーンを隠すことからもマダムがその関係を知っているわけでもなさそう。でもマダムの言うことに対して、しょうがなくやるとか嫌々やるとかは一切ないんですね。下手なのがわかっていても否定もしない。マダムのレコードをかけて笑う若者たちに憤慨し、キャスリーンが「席を立てば去る」と言ってもかまわず止めに行く(しかも以降キャスリーンは本当に出てこない)。新聞一部に5千ドル払ってまで酷評を隠そうとする。ここまで来るとシンクレアのフローレンスに対する愛情は揺るぎないものであると分かり、倒れたフローレンスが「嘲笑してたのね」と言うのに対して「僕は違う」と即答するのも信じられるのです。

では他の人はどうか。歌のレッスンをする何かエラそうなおっさんなどは最初から完全に金目当てですが(あそこまであからさまだと潔い)、ピアノのコズメも最初は金のために我慢しているし、キャリアに傷が付くことを恐れてカーネギーは辞退しようとします。シンクレアの「友人として」という言葉に遂に根負けしてしまいますが、結局は彼もフローレンスを見捨てられないという気持ちが野望に勝ったのでしょう。マダムと一緒に連弾するシーンなどはちょっとドキドキもんだし、「遺言に追加する」と言う言葉に泣きそうになるのも金がもらえるからではなく、あれだけ知りたがったブリーフケースの中身が遺言状だという事実になのです。また、フローレンスの歌にあれだけ爆笑していたアグネスさんは、一生懸命歌おうとするフローレンスを見て、ヤジを飛ばす兵士たちに啖呵を切る男前っぷり。兵士たちは笑いながらも(コメディとしてですが)ステージを楽しむまでに至ります。フローレンスの人柄や情熱が(決して彼女の望む形ではないにしろ)人々に楽しさを与えるのです。何より、今なおカーネギー公演のアーカイブとして聴かれ続けているというのがスゴい。

シンクレアは役者の夢を諦めたらしいことが語られますが、これにより冒頭でのハムレットの暗唱にシンクレアの未練が伺えます。フローレンスに「勇気がある」と言うのは、決して人前で音痴を晒すことを指しているのではなく、彼が踏み切れなかった夢を追い続けるフローレンスへの素直な称賛なのでしょう。それだけに妻の夢を壊さないよう、全力でサポートする。そんな彼の舞台が酷評された新聞を、昔フローレンスも隠すということをやってたりするんですね。結婚以来一度の性行為もなく、それでも強い愛情で結ばれ続けている、そんな夫婦の物語なわけです。フローレンスの歌はニューヨークポストの評論家が言うように「音楽に対する冒涜」なのかもしれません。それでも76歳にしてカーネギーホールに立ち、酷評されても「でも私は歌ったわ」と言い放ち、1ヶ月後に息を引き取るフローレンスに、儚さと強さを見ることができるのです。

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