2016
11.30

普通であること、愛しきこと。『この世界の片隅に』感想。

kono_sekaino_katasumini
2016年 日本 / 監督:片渕須直

あらすじ
靴下3足1000円!(震え)



昭和19年、故郷の広島市江波から20キロ離れた呉に嫁いできた18歳のすず。慣れない嫁入り先でそれでも食事や衣類など工夫して生活していたすずだったが、戦争の影響はどんどん色濃くなってゆく……。こうの史代の同名コミックを『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直監督がアニメ映画化。

第2次世界大戦下の広島、呉を舞台に、前向きに生きようとする女性すずと、彼女を取り巻く人々の日常が描かれます。戦時下の話というとヘヴィさに身構えてしまいますが、本作はこの「日常を描く」というのを徹底しているのがポイント。柔らかい絵柄と重めの話にギャップがあるはずなのに、あまりに日常と地続きでそれを感じさせません。普通に人が暮らしてるから当たり前に笑いもある。もちろん戦争中だから当たり前じゃない悲劇も起こりますが、でも生きているから飯も食うし着るものも都合するし睡眠もとる。「普通に暮らしていくことが戦い」なのです。

主人公すずさんの「いや~」というか「タハーッ」みたいな首を傾げた表情がたまらなく可愛くて可笑しいです。声を当てるのは声優初挑戦となるのん(能年玲奈)。少女時代の声には少々違和感もありましたが、成長してからはそれも消え、情感豊かに演じてくれます。少し抜けてたり、突然女を感じさせたりと、すずさんの魅力には参りますよ。人差し指を立てて手を交差する仕草などもカワイイ。義理の姪っ子である晴美を呼ぶとき普段は「晴美さん」なのが、緊急時は「晴美ちゃん」になるのも細かいです。

本作の素晴らしさは端的に表すのが難しいです。単なる戦争映画ではないし、時代とか性とか家族とか色んな要素が含まれています。笑えるけど泣けるし、重いけど軽やかでもある。怖さと前向きさ、悲しさと暖かさ、色んな感情を刺激されます。そぐわない言い方かもしれませんが、とても豊か。流される中でそれでも幸せを見つけようとするすずの姿に、生きるってそういうことだな、と思わされます。素晴らしかった。

↓以下、ネタバレ含む。








■映像化の意義

原作をできるだけ取り込もうとしてか、わりとテンポは早めだし、画面の情報量はかなり多く、それだけに一度では理解しきれないところもなくはないです。飛行機雲のくだりなどは分かりにくいし(当時は珍しかったので「初めて見た」、と同時に雲引く戦闘機への不穏さでもある)、すずが妊娠したかと思う流れはうっかりしてると分からないままサラッと過ぎちゃうし(「今朝は二人分」で伝わりますが)、方言や当時の言葉も知らないとスッと入ってこないものもあります。でも見にくいというわけではなく、何度観ても新たな発見があるような作りと言えるでしょう。観賞後に原作を読めば一通り補完もできるのでオススメです。エンドロール後に映るリンの名前の書いた紙切れと、本編で出てくる一部が欠けたノートの関係などは原作を読まないと分からないところです。と言うか、原作がまず素晴らしい。

その原作を見事に映像作品として昇華させているのが本作。アニメで動くからこその良さも実に多く、序盤で少女のすずが壁に挟んで荷物を背負うシーンなどはそこはかとなく良いし、干潟で転ぶ子供たちの姿などは微笑ましさ倍増。とにかく人物の動きがとても良いんですよ。それに食事シーンが非常に多いのも特徴的で、これが人の生活を中心にした物語であることを補強しています。またロングのショットで語る場面も多く、山の上から見える港のあった場所が空襲後は丸焼けで茶色一色になっていたり、夜は電灯に覆いを被せるため暗く佇んでいた家々がラストではあちこちで明かりが灯っていたりします。

あとやはり音ですね。防空壕で爆撃に耐える際に響き渡る轟音には恐怖を感じるし、何度も鳴り続ける空襲警報には頭がおかしくなりそう。それだけ観る者の視点が登場人物たちに近いということでもあります。だから響く。そんな作品がクラウドファウンディングで多くの人に支援されて製作された、ということにも意義を感じます。


■守りたい日常

本作は戦争ドラマではありますが、政府や軍部の視点というものは一切なく、あくまで市井の人の目線を崩しません。配給が減り、港に軍艦が寄港しても、人々は日々の生活を送ります。これがある意味で臨場感となっているんですね。いつの間にか戦争が始まり、ふいに戦闘機が上空を飛び交う。それでも生きている限り日常は続く。物語は徐々に「あの日」の広島に向かっていきますが、それも生き残った者たちには通過点です。だから物語は日常の笑いに溢れています。ストレスでハゲのできたすずの頭に墨を塗ろうとする晴美。白粉塗りすぎてあまりの顔の白さに周作に気付かれないすず。ラブラブな二組にすねる義姉の径子。空襲の中で寝てしまう父。砂糖を失い落胆するすずと晴美。憲兵に間諜と疑われるという非日常でさえ実は笑いをこらえていた径子と義母が可笑しいし、終戦後でも米軍の残飯雑炊に「うまー」と言ってしまう。「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」と言う義母の言葉は何よりも人々の心を代弁するものでしょう。ちなみに一見非日常に思える序盤の座敷わらし、これが実は子供の頃の白木リンであるというのがエンドロール後の一連のイラストで分かるようになっています。

それくらい日常的なシーンが続くので、初めて空襲警報が鳴るシーンでは緊張する以前に戸惑うんですよ。え、どうすればいいの?みたいな。国民学校に行ったり身近な人が軍人になっていても、いまひとつ実感が湧かない。だから呉の上空で戦闘機が戦い始めても体が反応せず「ここに絵の具があったら」と思ってしまう。やがて戦争が本格化すると警報にも慣れてきて避難すべきかも判断できるようになってくる。玉音放送を聞き終わっても「終わった終わった」なのです。それだけ戦争は日常にとって邪魔でしかない、異質なもの。「大ごとだと思ってた頃が懐かしい」と義母が言うように、それが当たり前のようになる状況が異常なのです。

とは言えもちろん他人事ではなく、戦争のためにすずたちは多くを失います。径子は建物疎開で実家に戻り、周作や義父はなかなか帰れなくなり、兄は石ころになり、法務の仕事だった周作が軍服を着ることになる。日常を徐々に侵食する非日常は、ついには晴美の命を奪い、すずからは右手を奪います。そして白光と轟音、遠くに見える巨大な雲。新型爆弾はすずの両親をいつの間にか死に追いやり、妹のすみを被爆させます。リンのいた遊郭が木っ端微塵になっている絶望感。路地裏で晴美の名を呼び泣き崩れる径子の、心を引き裂かれるような嗚咽。行き倒れた広島の兵が座り込んでいる一瞬のシーン、それがすぐそばで話し込んでいた刈谷さんの息子だったという悲劇。失うばかりで何も得られない戦争は、すずたちにしてみれば勝手に始められ、勝手に終わります。正義だと言われていた戦いは所詮は暴力でしかなく、故に暴力に屈する。その真実に「知らんまま死にたかった」と泣き叫ぶすず。失われた日常は二度と同じようには戻らないのです。僕は爆撃機が爆弾を落とす上空からのシーンで泣きそうになったのですが、それはどうしようもない暴力により日常が失われていく悲しみを感じたからなのかな、と思います。


■普通であること

すずは現状から逃れようとする思いと踏みとどまろうとする思いの間で何度も揺れます。径子にいびられながらもそのたびに前向きに対応し、この家を守れるかと周作に聞かれ、咄嗟に「無理です」と答えながらすぐそれを「嘘です」と否定する。原作からはカットされましたが、リンとの思いがけない関係にも揺さぶられたりします。銃撃のなか飛び去る鷺を追って走り出すのも、そこに故郷の広島へ帰りたい自分を重ねるから。すずは決して強いわけではなく、耐えてるだけだと思うのです。ただ、その耐えなければいけない思いをいつしか前へ進むための原動力に変えていく。晴美を失った後悔、好きだった絵も描けない辛さから広島に帰りたいと言うときも、その理由を周作に突き付けられたときすずはそれが図星であっても「違います」と叫びます。おっとりしたすずは流されながら生きてきたように見えますが、実はその流れのなかを自らの力で泳いできたのだ、ということが分かるのです。それは生活を守るということがすずの戦いでもあるからでしょう。「戦い」と言うのに語弊があるなら「希望」と言い換えてもいい。径子が実家に帰ろうとするすずに「ここにいてもよい」と言うのは、すずが希望を持ち続けた結果でもあり、だからすずは「ここに置いてくれ」と返すのです。

周作が入湯上陸した水原哲に幼なじみのすずをあてがおうとするくだりでも、すずは哲への思いを意識しながらも周作への怒りに震えます。それは紡いできた生活を守り今を生きようとするすずの姿勢を踏みにじるものだったからでしょう。そんな彼女を見て「すずは普通だな」と笑いながら言う哲。彼には当たり前のように軍人となって戦争に加わっている今の自分が普通ではないという自覚があります。だからこそ、ごく普通の生活を送り、ごく普通に笑ったり怒ったりするすずに笑顔を向けます。「英霊にしないでくれ、できなければ忘れてくれ」と言う哲の言葉には、戦場で死ぬことこそが普通であるという歪んだ自分とは違う世界にいて欲しいという、すずへの思いが感じられます。終盤に"青葉"を見やる哲は、いつかその歪んだ日常から解き放たれるのでしょうか。

普通であることの大切さを強調する手段として、「絵」を使う演出はとても洗練されています。哲の兄が死んだ海をウサギの跳ねる海原で表して「こんな海じゃ嫌いになれん」と言わせたり、空中戦という非日常を筆で散らすように色を付けて現実と切り離したり、爆風で広島から飛んできたガラス戸に広島での思い出を映したりします。晴美を失ったとき、何度も映っては弾けて消える繋いだ手の絵。布団の上でなくした右手の思い出を並べ上げるすずを映す絵。やがて骨組みだけの原爆ドームとなる建物の絵。それらはごく普通の情景を想う暖かさだったり、絵に描いたまま留めておけたなら、という悲しみだったりもします。そんな絵を描いてきた今は無き右手が、すずの頭をなでるシーン、それはその絵を描いたときの楽しさを思い出して、と言っているかのようです。


■片隅から世界は拡がる

いなくなってしまった人もいる、それでも「笑顔でいたい」と語るすず。戦争が終わっても生活は続きます。かつて「今の生活がなくなるのは面白くない」と語ったすずは、新たな日常を築きその中に再び「希望」を見つけるため生きていきます。関係が良化した径子と何がもらえるか分からない配給に並び、肌に異常が出た妹のすみには「治らなきゃおかしい」と言い放つ。そんななか変わらずすずの隣にいる周作は、すずにとっての日常を保証する存在と言えます。橋の上ですずが周作に言う「この世界の片隅にうちを見つけくれてありがとう」は、かつて同じく橋の上で周作がすずに言った「あんたを選んだんはわしにとって多分最良の現実じゃ」へのアンサーでもあるんですね。咲くタンポポの色さえ違う場所で生まれた二人がある日突然夫婦となり、それでも変わり続ける現実のなかで変わらず寄り添う。序盤でタイトルの横に並ぶ白と黄色のタンポポのように、それはさりげなくも愛しい現実です。

ラストで母を失い一人さ迷う少女。右手を失い死んでいった母の面影をすずに見た少女は、二人に引き取られることになります。母が左手で繋いでいたため助かった少女は、すずが右手で繋いでいたため救えなかった晴美のもうひとつの姿。決して晴美の代わりではないものの何も言わずに連れ帰ってくれた二人に、少女は希望を見出だすことでしょう。そして少女は北條家にとっても新たな希望となっていく。この世界の片隅から、その希望は始まるのです。

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