2016
11.17

悲しみを覆す驚き、寂しさを越える愛情。『湯を沸かすほどの熱い愛』感想。

yu_wo_wakasu_hodono
2016年 日本 / 監督:中野量太

あらすじ
銭湯だけどお色気シーンはありません。



明るさと強さをもって一人娘を育てる母の双葉は、ある日病院で突然の余命宣告を受ける。現実を受け入れた二葉は、家族のため、そして休業中の銭湯を再開させるために奮闘を始める……。宮沢りえが『紙の月』以来の主演を務めるヒューマン・ドラマ。

いわゆる「死ぬまでにやりたいこと」系の話です。ガンの告知を受けた女性・双葉が、家出していた夫を連れ戻し、娘に強く生きることを教え、いつもの風景を取り戻そうとする姿が描かれます。死期を知った母が一人でひとしきり泣いた後に見せるのは厳しい愛。難病ものではあるけど、暗さよりはあくまで前向きに生きる姿が響いて泣けます。というか、爆泣きです。ちょっと不思議な家族再生物語でもあるのが面白い。正直引っかかる点もあるんですが、意表を突く展開に何度か驚いたのもあって、そこは相殺ですね。

二葉役の宮沢りえは、何と言うか「上品さの残る肝っ玉母ちゃん」という感じで、儚さと強さの中間が実にちょうどいい塩梅。あと夫役オダギリジョーの適当男な感じがスゴい良くて、妻との再会の言葉だけでその軽さがわかるんですが、それだけに一番泣かされます。娘の安澄役である杉咲花のぎゅっと結んだ口元などもイイ。二葉がひょんなことから知り合う拓海役の松坂桃李、子連れ探偵・滝本役の駿河太郎の巻き込まれ組二人も面白いポジショニングです。

自分がいなくなっても家族が機能するようひたすら突き進む二葉と、きたるべきその日を意識しながらも彼女との時間を共に過ごそうとする人たち。そこにある暖かみにじんわりきます。銭湯という舞台も良い効果。ストレートに思えるタイトルにさらに意味があることに驚きます。

↓以下、ネタバレ含む。








二葉はたまに矛盾したことも言います。「食べろ」と言ったり「食べるな」と言ったり。安澄に「あなたを生んでない」と言った直後に「お母ちゃんの子でしょ」と言ったり。そんなところからも分かるように、彼女は決して完璧な人間というわけではないです。しかしそれでも周囲が彼女の言動を正しいと思えるのは、根底にある愛情に他なりません。「いつか役に立つ」と言ったブラや手話が実際に役立つのは、先見の明と言うよりは先の可能性をあれこれ考えた結果であろうと思うのです。安澄に牛乳だけ飲ませたのも、ひょっとしていざというとき吐いて保健室に行けるようにという……いやさすがにそれは出来すぎか。鮎子がおもらししても抱っこしてくれるお母ちゃんの優しさは、その分怒ったときの反動も大きいですね。夫の一浩に会ったときの「おたま尖った方殴打攻撃」で流血沙汰も辞さない(笑った)。それを自業自得に思わせるオダジョーも大したもんです。二葉との再会の第一声が「わーお」だし(笑った)、帰って来た娘たちには「おう」しか言えない、なかなかのダメ父。

本作が単なる人情劇にとどまらない理由として、「行動による驚き」と「設定による驚き」のダブルなサプライズがあるから、というのもあります。前者は例えば安澄が制服を取り戻すための行動。正直あれはやり過ぎとは思うし、いじめっ子が果たしてあれで反省するものだろうかというのも疑問ですが、吐くほど恥ずかしいことをして立ち向かい「お母ちゃんの遺伝子ちょっとあった」なんて言ってるの見せられたら泣きますよ。また、鮎子が一人自宅の前で母親を待つ行動。これは行動そのものよりも、その後の「この家にいていいですか」という台詞の方に驚きます。それは、鮎子が幸野家になかなか馴染もうとしない、という印象が、幸野家に馴染んでしまったらもう母には会えないと思っていたのでは、という風に変わるからです。結果的に鮎子は現実を受け入れるわけですが、それでも「もう少しママを好きでいていいですか」という子供らしさに泣かされます。そしてダメ父の一浩、エジプトは何の伏線だろうと思っていたらまさかの人間ピラミッド。「これしか思いつかなかった」と言いますが、思いつく方がむしろ凄い気が……。夫として、父として、「俺が支えるから、だから安心して」と絶叫する一浩には、双葉が何を成そうとしているのかが分かっているのでしょう。直後に「もう潰れるー」とか言っちゃってますけど。そしてここまで気丈に振る舞ってきた双葉が、告知以来初めて「死にたくないよ」と一人泣くのがやるせないです。

そして「設定による驚き」。一番驚いたのが阿澄の出生の秘密です。酒巻君江という名前は出ていたし、耳の不自由な人を手話で助けるという伏線もあったものの、突然のビンタに戸惑ううちにとんでもない事実が明かされるのには、素で「マジか!」と口あんぐりでしたよ。あのビンタは娘に気付かない君江に対する怒りだったわけです。そしてもう一つ、小さな女の子が母親に置いて行かれるシーンがてっきり鮎子のことかと思っていたら、双葉の話だったこと。ここに至り、なぜ双葉が阿澄や鮎子を受け入れてきたのかが分かるのです。母に捨てられる悲しみを知っているから、自分がもらえなかった分の愛情を、悲しみを覆い隠すほど与え続ける。そんな思いが二葉の根底にはあるのです。

悪い意味での驚きもありますけどね。二葉がその体で長距離運転って無理がない?とか(物語上やむを得ないですが)、拓海君が小さい女の子の前で「ラブホ行って逃げ出した」と話すのを母ちゃんが止めないのも不自然だし、実母に激しく怒るのはわかるけど子供がいるところの窓ガラス割ったらダメだろうとか。そんな不満はありつつも、二葉と安澄しかいなかった家にいつの間にか人が溢れているというのは暖かみのある驚きです。拓海君は再登場するんだろうなと思ったらまさかの住み込み店員になるし、安澄の実母は遊びに来るし、食卓に双葉以外の面子が揃ってる画の「なんだこれは」感が凄い。安澄と鮎子は実の姉妹のように仲が良くなり、最後は「鮎子」「お姉ちゃん」と呼び合うまでになるんですね。二人を見てると血縁より愛情であると示してきた二葉の思いが受け継がれていることが分かります。だからこそ、自分が逝く代わりに家族を再生させた二葉へ安澄が最後にかける「ありがとう」のことばが沁みます。

ラストで霊柩車を河原に止め、呑気にピクニックをする一行。「無茶だよねえ」と言いながらその光景を眺める一浩と滝本。どういうこと?と思ったら斎場がまさかの、というところまでサプライズ。いや本当に無茶なんですけど……道理で親族以外を退場させるわけだ。しかし銭湯が舞台で死を描く物語としては、これ以上ない帰結と言えるでしょう。二葉の好きだと言った赤い色の煙を吐きながら、燃える釜の火で湯を沸かす幸の湯。そこに揃って浸かる家族のにこやかな顔に、受けた愛情の大きさが伺えます。そして炎をバックにタイトルが出たときの力強さに、寂しさより熱さを感じるのです。

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