2016
09.05

積み重ね、結び、出会う。『君の名は。』感想。

kimi_no_naha
2016年 日本 / 監督:新海誠

あらすじ
いつも誰かを探している。



およそ1000年ぶりという彗星が接近していたある日、山奥の田舎町に住む女子高生の宮水三葉は、自分が東京の男子高生になった夢を見る。一方で東京で暮らす男子高生の立花瀧も、見知らぬ田舎町で自分が女子高生になっている夢を見ていた……。『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』などの新海誠監督によるオリジナル長編。

新海誠作品と言えば、背景が素晴らしく美麗なこと、そして様々な「距離」により隔てられた男女の物語であることなどが特徴であり、本作にもそれは踏襲されているのですが……いや驚きました、そうくるのか!田舎町の神社の娘である三葉と、東京でバイトに明け暮れる瀧、二人の心がそれぞれの体と入れ替わるという一見『転校生』のような話ですが、話はそこから意外な方向へと転じていきます。SFとしては穴もあるのでどちらかと言えばファンタジーなのでしょうが、それはともかく、新海誠らしいのにらしくない、同監督作の中では最も素直に「面白い」というのにまず驚きました。今までがつまらなかったというわけではなくて、作家性が前面に出ていてそれだけに観る人を選ぶものが多かった過去作に比べて受け入れやすい要素が多く、何より物語が(整合性という意味ではなく)良くできているのです。明らかに大衆的になったと言うか、普遍性を備えた娯楽作として完成度が高い。そして今までの新海作品には見られなかったユーモアがある、というのも驚き。それも無理やりではなく自然にクスッとくるような笑いです。そして結末の付け方にも驚きました。

瀧役の神木隆之介、三葉役の上白石萌音が共に素晴らしく良くて、特に神木くんの女性喋りがヤバい。思わず「可愛い」と思ってしまうほど、入れ替わってるのがすんなりと実感できるんですよ。上白石萌音ちゃんの声は『ちはやふる』のときも思ったけど、実に耳に心地良いですね。この二人もそうですが、奥寺先輩役の長澤まさみも言われないと分からないほど馴染んでいるし、ばあちゃん役の市原悦子はもちろん抜群の安定感。キャラデザインに『心が叫びたがってるんだ。』などの田中将賀を起用し、今までよりもアニメ的表現を増して表情豊かになったのもあって入り込みやすいし、瀧や三葉の友人とのやり取りも過去作の取って付けたような感じではなくちゃんと面白くなっています。また、音楽をRADWIMPSが担当しているのも特徴的ですが、これは賛否両論あるところでしょうね。個人的には曲の使い方には不満もありますが、それでも過去作よりはシーンに上手く乗ってる感はあったと思います。

いくつか気になる点もありますが、今までの新海作品のなかでは最も万人にオススメできるのは間違いないでしょう(と思ったら案の定大ヒット)。正直、最初観たときは果たしてこれでよかったのだろうか、これを望んでいたのだろうか、という思いが少しあって、さすがにそれはひねくれすぎだろうと思ったりしてましたが、どうにも気になって2回目を観たところで「ああこれ超好き」となってしまいました。いまだに新海誠が好きな作家かどうか自分でもよく分からないんですが、今後さらに期待してしまうのは間違いありません。

↓以下、ネタバレ含む。







■継続と新味

巫女の口噛み酒、妹の四葉との絡み、カフェ、瀧の友人・司の「可愛かった」などのコミカルなシーンが多く、劇場でも結構笑いが起きていました。自分でおっぱいを揉むという繰り返しなどは、「あいつに悪いか」と言いつつ揉む、最後の入れ替わりでさえ肩を抱いて泣きながらやはり揉む、という見事な重ね技。あれは揉んでる感覚と揉まれてる感覚のどっちが強いんだろう?女性の方、ぜひ見解をお聞かせください……それはともかく、そもそも瀧と三葉の入れ替わりによる男女間ギャップからしてギャグになる要素満載なわけで、特に前半に顕著なこのコミカルさはキャラへの親近感という点で実に有効に機能しています。それが人物に血を通わせ、単にストーリーをこねくり回しただけではないという印象を与えるんですね。より娯楽作に特化した作劇を感じさせます。

映像で魅せる点としては、言うまでもなく美術の美しさ。新宿のリアルすぎる風景、飛騨の雄大な自然などはさすがの一言で、その中で彗星だけが幻想的ながらどこか禍々しさを感じさせる美しさであるというのが絶妙です。電車のドアや部屋のドアを開けたり閉めたりというショットが多いですが、それ自体には何かを仕切っているなどの意味は特に感じられないものの、シーン切り替えをテンポよく行うという効果はあるのかもですね。仕切りと言う点では、かたわれどきの沈む夕日の光の線が消えたときに二人の世界が繋がり出会う、という見せ方には、時間を超えて繋がる説得力すら感じるような美しさがあって好きです。逆に、瀧が三葉に電話する、東京にきた三葉が瀧に電話する、瀧が奥寺先輩と別れる、など「繋がれない」場所として歩道橋の上が共通して使われているのも印象深いです。

最初観たときはテレビ放送のアニメみたいだなと思ったオープニング、実は一度観た後じゃないと分からないような時間の経過や位相のズレみたいなものが描かれていて、粋な仕掛けとなっていますね。そもそも三葉が成長して生きている。こうした描写をすることによる奥行きの持たせ方、みたいなのが色々と積み重ねられています。三葉in瀧が遭遇するスカート切り裂き事件などは無理矢理さがあるものの、「すぐできます」と縫いながらすげー凝った刺繍して見せる三葉の女子力が示されます。瀧in三葉が家のことを小馬鹿にする三人に机を蹴り飛ばすのも、弱いくせに喧嘩っ早いと評されているからやりかねないですね。そう言えばその三人はラストのその後の人々を映していくシーンでもちゃんと映ってました。あと、まさかと思ったら本当に『言の葉の庭』のユキちゃん(声も花澤香菜)だったのは嬉しいサービスです。

逆に不満だったのは音楽。劇伴は良いし、曲調も合ってたからまあいいんですが、RADWIMPSの曲ばかり4曲も使うのはさすがにやりすぎ感があります。最後にタイトルを表示するところでの曲の乗せ方がちょっと野暮ったいんだよなあ。あそこはスパッと切り上げてほしかった。


■隔たりと出会い

瀧と三葉の間は、最初は「距離」によって隔てられていると思わせて、実はそこに「時間」の隔たりもあった、というのが物語の核になります。しかも3年という微妙なズレであるというのがミスリードを誘い、さらには夢から覚めると記憶も徐々に失われていくというのがせつなさへと繋がっていきます。ただ、冷静に考えれば何度も互いの時代に行っているのに今が何年かに全く気付かないというのは不自然だし、入れ替わった体で中身が違うとバレずに行動できるのも不可解。この辺りを突っつくと途端に整合性が崩れてきますが、個人的にはエモーショナルな物語に必ずしも論理性は必要ではないと思っているので、まあいいかなと思ってます。敢えて理由付けをするなら、その肉体がそもそも生きている時代に違和感を感じるということはないのかもしれないし、知識はなくとも体が覚えている習慣などは自然と体が動いてくれる、ということなのかもしれません。

それよりも、実は三年のズレを示すヒントが散りばめられていた、ということの方がミステリーとして面白かったのでさほど気にならなかった、というのもあります。なぜ瀧には彗星が見えないのか。なぜ電話が通じないのか。三葉が「私、東京に行く」と言うさりげない描写。なぜ三葉は髪を切ったのか。このヒントの積み重ねが真実を示すと同時に、その理由への不安を煽るという役割も持ちます。さらにこの積み重ねは、誰よりも知っている相手に会いたくても会えない、あるいは会っても分かってもらえないというせつなさにも変わっていきます。

ついでに言えば、なぜあの二人が繋がったのか?というのも引っかかる点ではあるんですよ。三葉は糸守神社の娘で神と繋がる立場だからまだ分かるし、「こんな町いやだ、東京のイケメン男子になりたーい」とも言ってるし。でも相手が瀧である必然性がないのです。瀧の方は別に女子になりたいわけでもないし。これも「運命の相手が瀧だった」くらいに考えておけばいいんでしょうが、強いて言えば、瀧が中学生の頃既に三葉と出会っているから、という逆説的な理由を挙げることもできなくはないです。そこまで行くと鶏と卵の話になりますが、そもそもタイムトラベル、歴史改変の要素もあるため、あまり理詰めにするとアラは出てくるとは思います。

でも「既に出会っていたから」と考えるのはなかなか良いんじゃないですかね?瀧と三葉が互いを好きになる描写が少し弱いと思っていましたが、それも補完されるような気がします。瀧は時々手首に付ける組紐を見るたびに心にチクリと刺さるものがあったのかもなあ、などと考えると「ずっと誰かを探している気がする」のはここから既に始まっていたのかもしれない、といういかにも新海誠らしいロマンティシズムも見えてきます。過去を思うと心にチクリと刺さるもの、これはラストで奥寺先輩の薬指に光る指輪とか、恐らく三葉の方に惹かれていたテッシーがさやちんと結婚話をしている辺りでもちょっと感じられます。


■結びと積み重ね

世の様々なことは結びとして繋がりがある、と一葉ばあちゃんは言います。その繋がりにより瀧と三葉は巡り会うわけですが、どうやら一葉ばあちゃんにも同じ経験があったようで、遺伝として三葉に受け継がれることで彗星落下を避けようとしていたのでしょう。誰が?いやもう糸守の神さまが、としか言いようがないですが。瀧が再び三葉に戻れるのも口噛み酒にある魂の半分を飲んだからで、ここはもう神懸り的な領域です。繋がりの概念は魂の話となり、彗星の形が紐となって細胞分裂が始まり三葉へと還るシーンなどは輪廻転生をも思わせます。オカルティックでさえありますが、要は繋がりを求める思いの強さが奇跡を起こすという話なので、ここまでの「結び」に関する積み重ねもあって、思いのほかすんなり受け入れてしまいます。

一方で爆弾テロ騒ぎで町を救おうと奔走する瀧in三葉たちの奮闘がアガります。そして湖を見下ろす二つの場所が繋がったとき、遂に出会う二人。ずっとやりたかったであろう軽口を言い合う姿。忘れてしまわないよう互いの名前を手に書こうというところでの時間切れ。瀧の組紐は三葉に返してしまい、それを見て思い出すことももう出来ない。それでも三葉は町を救うため最後の力を振り絞ります。テンション上がってた爆弾計画に一旦水を指すような構成ではあるんですが、遂に出会えたという喜びから一転して唐突な別れ、そこから彗星が割れてタイムリミットが近付く悲愴感へと続く流れを見ると、二人が会うタイミングはそこになるでしょうね。せつなさを押し殺し、思い出せない名前に苦悶しながら、坂を転げてそれでも奔走する三葉に引き付けられます。

ここでひとつ気になるのは、なぜ瀧が三葉だけではなく町全体を救おうとするのか、ということです。町を見棄てて「君だけでも逃げろ」という選択肢もありうるわけですが、それはしません。思うにそれはヒロイックな行動というわけではなく、瀧が三葉として何度もこの町で過ごして糸守の人々と触れ合い、町の風景をスケッチし、多くの犠牲が出たことを知るというエピソードの積み重ねがあるからではないでしょうか。隕石落下から救うというドラマが予想がついた時点でそこは観る側にも織り込まれているんですね。また、未曾有の大災害による町の崩壊という点では3.11を連想させますが(実際監督もそれを意識したと語っていますが)、たとえ綺麗事だとしても結びによる繋がりを救いたいという、これはフィクションだから込めることのできる思いなのだろうとも思うのです。


■瀧と三葉

距離により隔てられた二人が残される、あるいは「いつか、きっと」を思い出に変えるなど、いわゆる「せつなさ」は新海誠作品の特徴の一つであり、本作でも距離、時間、生死という隔たりの連鎖、さらには「忘れてしまう」という要素まで付加し、こいつはせつない!と身構えてしまいます。だから5年後、歩道橋ですれ違ったり、電車で並走したときに窓の向こうに見つけたりしても、きっとすれ違いのまま終わるのだろうと思ってたんですよ。しかしラストの階段のシーンからのエンドロール、終わってみればこれ以上ないハッピーエンドであり、先があるという希望をもって幕を閉じるというのに驚きました。

でも2回目を観終わったときには、瀧も三葉も能動的に精一杯行動したからこそ自ら未来を掴み取ったのだと感じました。例えば二人が涙を流すタイミングも瀧はばあちゃんに「夢見てるやろ」と言われて起きたとき、三葉は「今頃デートかなー」と言う朝と、共に最後の入れ替わりが終わったときであり、ここで結びが切れたことの悲しさが涙として表されるわけですが、しかし一旦切れた結びをそれぞれが再び手繰り寄せるということをしてるんですね。あるいは手のひらに名前ではなく「好きだ」と書いてしまうのは名前より先に溢れる思いを伝えなければ、という熱意であるのでしょう。そういった行動の積み重ねがあるからこその納得のラストであると思えましたよ。

『君の名は。』というタイトルは、最後が「?」ではなく「。」であることからも名前を聞いているわけではなく、どうしても思い出せないもどかしさ、忘れてしまった悲しさを表していると思われます。これがラストで「君の名前を知っている」という確信の意味へと変わる。多くの「積み重ね」を挙げてきましたが、それらが実を結ぶからこその結末に「ああこれ超好き」となってしまいます。

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