2016
05.15

握ったその手に温もりはあるか。『太陽』感想。

taiyou
2016年 日本 / 監督:入江悠

あらすじ
ゲートのこちら側とむこう側。



ウイルスにより激減した人類は、ウイルスに抗体を持ち太陽の光に弱い新人類「ノクス」と、ノクスに管理されて貧しく生きる旧人類「キュリオ」という二つ階層に分かれて生活していた。そんななか、キュリオの男によるノクスの殺人事件が起き長らくノクスによる経済制裁を受けていたとある村で、ノクスに憧れる少年とキュリオとして生きようとする少女が、過酷な運命に飲み込まれていく……。劇団「イキウメ」の同名舞台を『SR サイタマノラッパー』『ジョーカー・ゲーム』の入江悠監督により映画化。

支配階級として君臨する新人類ノクスと、キュリオという蔑称で呼ばれる旧来からの人類に二極化した世界。太陽の光を浴びると命にかかわるというノクスの特性は、設定的にはヴァンパイアものですが、大きく異なるのは血を吸うわけではないということですね。血が体内に入るとノクスになりますが、そのために人々を襲ったりするわけではないし、血を吸わないと生きられないというわけでもない。経済的にも文化的にも技術的にも圧倒的アドバンテージを持って支配しており、そもそも意識の在り方からして違う。ノクスに抵抗しようとする者たちもいるものの、勝負にならないんですね。立場の逆転としては『デイブレイカー』のような世界観なわけですが、これが日本の寒村を舞台にするとこうも叙情的になるのか、というのはちょっと驚き。そこにあるのは戦いなどではなく優性種による劣性種への差別です。

そんななか20歳以下のキュリオにはノクスに転換する機会が与えられることになり、ノクスになりたいと熱望する鉄彦と、ノクスへの反感を持つ結(ゆい)らが翻弄されていきます。鉄彦役は神木隆之介。神木くんがアホの子すぎるんですが、その姿が可笑しくも悲しい。結役の門脇麦の、抱える苛立ちや母への複雑な思いなども良いです。ノクスの駐在員・森繁役の古川雄輝による鉄彦との関係の推移も重要なポイント。結の父役の古舘寛治を始め、高橋和也、村上淳、鶴見辰吾らが皆役柄ピッタリで良かったです。

ワンカット長回しの多用により、見えないところでの緊張感が舞台とはまた違った感じで面白いし、日の出と共に現れる地獄も凄まじい。土着的な日本のムラ社会で、古くとも繋がりのある時代か、新しく快適な時代か、そんな問いを突き付けられた若者たち。彼らが選ぶ道に、やるせなさと微かな希望を残す。良かったです。

↓以下、ネタバレ含む。








ノクスは進化した人類という位置付けですが、最も旧人類と異なるのは感情、因習、血縁といった人間的な特性がないこと。論理的な思考で、子作りでさえパートナー以外と試すことも厭わない。こだわり、しがらみといったものから解放された存在であるとも言えます。旧人類との技術格差は時代が違うんじゃないかというほどの開きがあり、3Dホログラムでヒーリングしたり、車の走る音がちょっとSF的だったりと、細かいところで別次元感を強調させているのも効いてますね。管理の仕方は通り一遍でまるでモノを管理してるかのようで、暴力的な恐怖はありませんが時折垣間見せる感情の欠如には薄ら寒さを覚えます。鶴見慎吾が大きな声での「ありがとう」を何度も強要するのも精神的に屈服させているかのようであり、それでいて単に感謝の言葉がないのは失礼という理論に沿っての行動のようにも見える。ノクスがなぜ勢力を持つに至ったかは語られませんが、それを垣間見るシーンです。出生率が低いというのも人間という種からかけ離れた結果かもしれません。

鉄彦がノクスに憧れるのは、いい生活をして美味いものを食って楽しみたい、というごく人間的な欲求によるものですが、それ以上に田舎暮らしに嫌気が差している感が強いですね。ノクスには体育や図工の授業がある、というそれだけでうらやましくて仕方がない。鉄彦はモノ作りが好きなようなのでなおさらです。キュリオが蔑称だということさえ知らないが、ただ未知のものに憧れる気持ち。ここではないどこかに惹かれる若者の体現が鉄彦です。一方で結は、去ってしまった母への反感から、華やかな都会の象徴であるノクスを嫌っています。でも心のどこかで自分を縛る地元にも嫌気が差しているのでしょう。四国に行ってノクスなしの生活を見たいと言うのにも、この場から逃げ出したいという思いを感じます。しかし転換希望を勝手に出され、母への憎しみと寂しさに板挟みとなり、友人だった男にレイプされ、とボロボロです。彼女がノクスとなり、今まで悩んでいたことが馬鹿らしいとまで言うのは、ある意味救われたという気がしなくもないのが複雑な気分。

ノクスの生活は良さげに見えるものの、生まれたときから人生を決められるというとても自由とは呼べない社会であり、暖かさにも欠けます。じゃあキュリオの方がいいのかと言えば、貧しいというのは別にしても、そこには争い、身勝手さ、苛立ち、諦め、といった閉塞感がある。結局はノクスもキュリオもろくなものではなく、それはこの世界自体がろくなものではないというのとイコールとも言えます。鉄彦は村に戻って来た克哉が森繁にした仕打ちでそれを目の当たりにします。「俺は太陽の子だ」と意識高い台詞を残して去りながら、恐らく逃げ出して来たのでしょう、「部隊を率いてた」とうそぶく姿もあって何の進歩もないことが見て取れる。克哉は明らかに負け犬です。そして鉄彦はノクスの友人を殺した克哉とは逆に、目の前で朝日に焼かれていく友人を救うため、彼の手首を斧で切り落とすという地獄を味わう。クライマックスのワンカット長回しのシーンにはそんなろくでもなさがこれでもかとブチ込まれています。手首を失い重体の森繁、クズ野郎の克哉の帰宅、鉄彦の母の死、無気力となった結の父、克哉を制裁する村人たち、鉄彦の嘆き、放心の結。多くのドラマを一気に収束させる凄まじさ。

最後にノクスとなった結が、父にかつてと同じく「村のため」と言いながら「大丈夫、握手くらいでうつらないから」と、父の元友人であるノクスの高橋和也と同じ台詞を言うのがいたたまれません。娘の幸福を願い続けた父が、別人となってしまった娘と交わす握手の悲しさ。身勝手さを捨てる代わりに、思いやりも失われてしまう。そんななか、決まったレールに乗り続けることに疑問を抱き、ノクスもキュリオも関係ないまだ見ぬ日本のどこかを見たいと言うノクスの森繁と、ただ彼と友達になりたかったキュリオの鉄彦が二人で出る旅路。何もない荒野を二人が車に乗って走り去って行くラストシーンは、ろくでもない世界をそれでも照らし続ける太陽の光と重なり、一縷の希望となって終わります。エンドロールで流れるのが自然の音だけというのも、人間の負の面から解放されたようで微かに安堵します。

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