2016
03.18

木から下りた猿の行く末。『オートマタ』感想。

Automata
Automata / スペイン・ブルガリア / 監督:ガベ・イバニェス

あらすじ
私はロボット。



2044年、太陽嵐により滅亡に瀕した人類は2種類のプロトコルで制御された人工知能搭載ロボット「オートマタ」を労働力としていた。その製造会社の調査官ヴォーカンの元に、不可解な行動により破壊されたオートマタの残骸が届く。破られるはずのないプロトコルが解除されている疑いをもったヴォーカンは調査に乗り出すが……。アントニオ・バンデラス主演、人工知能と人類の行く末を描く近未来SF。

「生命体に危害を加えてはいけない」「自身で修理・修繕をしてはけない」という二つのプロトコル(ルール)に守られたはずのロボットの謎行動を探るSFサスペンス。人類の9割が死滅した世界はどこか空虚さが目立ち、巨大な女性を映し出すホログラムなど退廃的な都市風景、一転して渇いた砂漠風景という、ざらつく感じの近未来映像が良いです。そしてオートマタと呼ばれるロボットが『アイ,ロボット』などとは異なり凄くロボットっぽいのがいいんですよ。あくまでも人型をした機械であり人間とは違うため、最初は愛嬌さえ感じるロボットの顔が「変わる」ときのスリル、じっと佇む姿の不気味さが強調されます。作業は早いのに歩くのは遅いというのもリアル。

改造不可能なオートマタに手が加えられていることが分かり、その謎を追うというミステリー的な側面も、意表を突くというほどではないですがなかなか面白い。調査に赴く主人公ジャック・ヴォーカン役はスキンヘッドのアントニオ・バンデラス。最近は『エクスペンダブルズ3』の印象が強かったのでちょっと不安でしたが、渋い演技派な面を大発揮してるし、SFとの組合せも思ったより馴染んでます。チョコレートをむさぼり食う姿とか良いなあ(そこ?)。アクションを期待するとちょっと肩透かしですが、そういう話ではないのでね、問題ないです。

いまいち設定を出しきれず雑に感じる部分もなくはないですが、説明的な台詞をあまり使わずビジュアルで示す未来像には説得力もあります。「よい人生を送ろう」という言葉に囚われた人類のエゴを軽々と超越するオートマタは、何を思い静かに蠢くのか。ちょっとした事件がやがて人類と人工知能の共存、そしてその先へと繋がっていく壮大さ、そして哲学的な赴き。若干地味ではありますが、アシモフ的で良いです。これは好き。

↓以下、ネタバレ含む。








ちょっと引っ掛かる点もあります。いかにも重要人物として出てきたデュプレ博士があっけなく退場したのは驚きですが、油断させるためとはいえわざわざ子供に殺させるメリットが微妙です。環境の変化により通信は制限されてポケベルに逆戻りしているのに、オートマタたちはどうやってやり取りしてるんだろう?とか、最初に作られた制限なしのオートマタはバイオカーネルが抜かれてるけど、じゃああのリーダーは誰が作ったの?とか、谷の向こうは核で滅んだと言うけど、太陽嵐じゃないんだっけ?など色々と疑問が残るのはちょっと残念。あとウォレス刑事の見た目があまりにアウトロー刑事すぎるのは笑いました。

多少の地味さを感じるのは、あまり暴れないバンデラスというのはあるにしろ(最後にはやってくれるんだけど)、全体を通しての殺伐とした雰囲気ですね。ネオンが瞬く夜の街もそのネオンの色数が少ないとか、人類の数が激減しているのもあって人が多く映る画があまりないなど、どこか侘しさを感じます。逆に無機質なオートマタたちが、あちこちで動いていたり、気付けばすぐ近くにいたりする。なまじ人型であるために生物のように思えそうになりますが、鏡越しにこちらを見つめる無表情さなどが不気味で、親しみを持つことを拒否するような作りになっています。劇中の人々にとってもロボットは所詮ロボットで、冒頭のクレーム親父などは家族のようにそこに佇むロボットを指して「自分の家族を傷付けた」と糾弾します。オートマタは労働力であり、友人ではないんですね。

唯一例外として登場するのが売春宿のクリオです。性処理の道具であるクリオが他のオートマタと絶対的に違うのは、人間そっくりの顔を付けていること(一応乳も付いてます)。表情は変わらないのでむしろ余計不気味なときもありますが、相手の発情を感じると喘ぎ始めるという仕様もあって(何気に凄い機能だ)、若干人間に近いような錯覚を覚えます。加えてオートマタたちの中で最も感情(と言っても主に好奇心ですが)を見せる。「人間が殺し合えるとは思わなかった」というクリオの言葉は、人という生き物の核心を突いているようで怖い。理解できないことがあると微かにノイズを発するのが感情っぽいと言えばそうかもしれません。

ただ、これはロボットが人類と敵対する話ではないんですね。あくまでも自分たちが「人類を引き継ぐ種だ」と悟っただけであり、滅ぼしたりはしないけれど滅ぶのは自明だと言っているわけです。人間が何百年もかかることを数週間で覚えてしまうという優位性、プロトコルを外すことで得た自己修復に自己増殖。繰り返される「木から下りた猿」という言葉は、ストレートに「進化した種」を表していることが分かります。そして作られる次世代のオートマタ。その機械の「子供」はもはや人型でさえなく、荒涼とした地で生きるのに適した柔軟性のある姿形です。言葉は必要ない、と言うのはそもそも人間との共存を想定してないからですね。

そこで対になるのがヴォーカンとその家族です。「よい人生を送りたくないか」とこれもまた繰り返される言葉で縛られていたヴォーカンは、追っ手を倒して自由を手に入れる。そして生まれた命は種としての存続を意味する。驚異的な進化を遂げたオートマタたちと、立場的に並んだと言えます。共に新たな世代への愛しさに収束するのも同様。自由の象徴と見れる海辺の亀が、縛りである言葉の繰り返しとは逆に映像で繰り返されるのも面白いところです。しかし、人類と機械が分かり合おうとする段階は既に超えてしまっている上に、ヴォーカンたちが旅立つ先は限りなく不透明。ラストに妻の「あったわ」で流れる海の映像もヴォーカンのイメージでしかありません。家族三人とも既に被爆しているのであろう現実を考えたとき、美しい映像とは裏腹に避けがたい人類の滅亡が実感できてしまう。恵みの海という幻と、渇いた大地という現実が、種の交代劇というシビアな結末に似つかわしいです。

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