2016
02.09

すれ違いの忠誠心。『ブラック・スキャンダル』感想。

Black_Mass
Black Mass / 2015年 アメリカ / 監督:スコット・クーパー

あらすじ
薄毛でも怖い。



1970年代のサウス・ボストン、アイルランド系マフィアのボスであるジェームズ・"ホワイティ"・バルジャーに、協力してイタリア系マフィア排除の話を持ちかけるFBI捜査官コノリー。しかしホワイティは次第に権力を握るようになり、危険なギャングへとのし上がっていく。FBI史上最高の懸賞金をかけられた凶悪犯の実話を元に、ジョニー・デップ、ジョエル・エドガートン、ベネディクト・カンバーバッチらが共演するクライム・ストーリー。

実在する伝説のギャング、ウサマ・ビン・ラディンに次ぐ最重要指名手配犯であった"ホワイティ"ことジミー・バルジャーの半生を描くギャングもの。ボストンのいちギャングにすぎなかったジミーが「どういう関係性を持って」上り詰めるのかが語られていきます。ここでポイントとなるのは「どのような悪事を働いて」を描いてるわけではない、ということですね。それらは会話のなかでは出てきますが、映像としてはあまり映らない。ジミーが昔馴染みでFBI捜査官となったジョン・コノリーと手を組む、この関係性から世紀の黒いスキャンダルは始まるわけです。

どうしたって目が行くのが、革ジャンに薄毛のジョニー・デップの怪演です。抑えた演技ながら空気を凍らせるような雰囲気をまとい、本来なら魅力を感じさせる深みのある視線はまるで深淵を覗いているかのよう。いざというときの大胆な行動、そして容赦のない粛清も怖い。一方ジョエル・エドガートンの演じるコノリーの存在もジミーと同じくらい重要で、上司に反発してまでジミーを擁護しようとするのはなぜか、そしてFBIの正義とは、というところを浮き彫りにします。この二人に限らず、本作はなかなかの「男たちの顔面力」映画。ジミーの弟で政治家となるビリー・バルジャー役のベネディクト・カンバーバッチ、コノリーの上司役ケビン・ベーコン、同僚モリー役のデイビッド・ハーバー、ジミーの片腕フレミ役のロリー・コクレイン、若い衆役のジェシー・プレモンス、連邦検事役のコリー・ストールと顔面力高い面子が揃っていて魅せてくれます。

仕事、と言うかシノギの場面はほとんどなく、さほど劇的な変化なしで緩やかに移行していくため地味に感じるかもしれませんが、それだけにいつの間にか抜け出せなくなってる感が凄いです。そして実際の殺しより暴力を使わない暴力描写の方が秀逸だったり、静かに怒る様の方が迫力があったりします。これは『ファーナス 訣別の朝』と同じ監督と知って納得。『グッドフェローズ』のようなギャングものとは通じるようでそうでもないですね。ジミーが息子に語って聞かせる人生哲学のゲスさ、自分は上手くやっていると思っているコノリーの滑稽さ、といったものが「忠誠心」という言葉の空虚さに結び付いていきます。

↓以下、ネタバレ含む。








ジミー・バルジャーの怖さは、突発的な銃殺や計画的なくびり殺しよりその前段階の不気味さですね。失敗には静かに怒って注意するも二度としないという者にはそれ以上は言わない。しかし裏切り者には容赦も躊躇もないし、何を考えてるか分からずこちらの想定外のところでブチキレる。家庭の秘密だと言ってステーキのレシピを教えたモリーに対して揚げ足取るような脅しとか、ジミーの妻マリオンへの顔なで攻撃などは心底ゾッとします。この不気味さはジミーの内面をあまり映さないということにも起因している気がします。最初こそ近所のおばちゃんに声かけたりして一応周りに慕われているんだろうという見せ方はしますが、家族との別れがあってもその内面は描かれない。正確には次の瞬間には心を閉ざしてしまうのであまり感情が表に出てこない、という感じでしょうか。妻が息子の死を口にしたときの瞬間的な感情の暗転などは顕著。徹底した裏切りへの粛清も他人を信じていないからなのでしょう。

元の仲間たちが尋問に際して「これは密告ではない」と言い張るところにも恐怖支配の名残が伺えますが、彼らが次々尋問に応じる姿にはジミーが人を信じなかった結果が表れているとも言えます。その点では「利用し合おう」と言ったジョン・コノリーだけが、本当にジミーへの信頼を持っていたのかも。しかしコノリーがジミーからもらった情報は結局イタリアン・マフィアのヤサ情報のみであり、結果としてジミーを自由にさせてただけになります。過去に助けてもらった恩があるとは言え、コノリーのジミーに対する思いは単に彼が役に立つと思っているレベルを越えており、奥さんに言われるように口調や歩き方がチンピラ化してたり、コネを使い策を弄しブラフをかけて、上司に対してまで大物ぶるところはギャングと変わりません。要するに憧れの先輩の真似をする若手のまま。それはFBIとしての尊厳などない嘘で塗り固められた生き方であり、だから新たな連邦検事が独自に証言を集め周りを固めてから突き付ける真実に口ごもってしまいます。

ジミーが序盤に息子に語って聞かせる「見られなければやってないのと同じ」は彼の人生哲学だったはず。しかし見過ごせないほどに強引で大胆になっていくことで、やってないということにはできなくなってしまいます。このジミーの豹変は息子の死、母の死という家族の喪失によってエスカレートしていくように見えますが、ただ実在のジミーには息子はいなかったらしく、そこは映画的な改変のようです。家族の喪失が暴走の契機となる、というように見せたかったのか?でもそう見えるかと聞かれれば、ちょっと微妙だと思うんですよね。むしろこの改変はジミーとコノリーの関係への対比に思えます。ジミーにとって血縁の家族は無条件に信頼できる相手であり、それを失ったあとは徐々に狂気に傾いていく。血縁以外では同族であるという繋がりでIRAを支援もしますが、どれだけ尽くしてもコノリーはジミーのファミリーにはなれていません。二人とも忠誠心が大事だと言いますが、コノリーの忠誠心は一方通行であり、ジミーにとっての忠誠心は信頼とはイコールではなかったのでしょう。その点、政治家である弟ビリー・バルジャーとは距離を取っているにも関わらず、要所要所で言葉少なでも通じる場面があるのもまた血縁の重要性を感じさせます。

ビリーは本作を観る限り真っ当な政治家であり、兄への愛情はあってもそれを自分の領域には持ち込まないですね。つまり政治との絡みはほぼない(それだけにカンバーバッチの出番は意外と少ない)。ついでに最初は出ていた各人の妻たちもいつの間にか姿が見えなくなったりする。ジミーの周りは人が減っていっているようにも見えます。実際はどんどん権力を拡大してるのでそんなことはないはずですが、一緒にいるメンバーはいつも同じなので組織がどの程度大きいのか把握できず、かつ粛清などで退場する人も多い。これがまたジミーの孤独を煽っているように感じます。ジミーの内面はそれほど描かずわりと客観的な視点が貫かれていますが、そんな淡々とした演出がジミーの孤独感を増幅させます。

最後に逮捕されるコノリーの「手錠をかけずに連行してくれ」という姿の哀れさ。そして逃げ回った末一人きりで警官隊に捕まるジミーの侘しさ。それぞれ絆を求めた二人は、求めるものが違ったが故に孤独にすれ違ったまま終わるのです。

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